第一章 空を選ぶ理由
少年が空を見上げるようになったのは、いつからだったのか。
本人にも分からない。ただ、気がつけば首は自然と上を向き、雲の流れを追っていた。
村は小さく、海と畑に囲まれていた。ここで生きるなら、決められた道を進むしかない。誰もが同じように育ち、同じように働き、同じように年を取る。
それを不満だと思ったことはない。ただ――息が詰まる、と感じることはあった。
空だけは違った。
どこまでも続いていて、境界がない。
努力も才能も関係なく、見上げることだけは誰にでも許されていた。
召集令状が届いた日、家は静かだった。母は何も言わず、父は短く「行ってこい」とだけ言った。
それが誇りなのか、諦めなのか、少年には判断がつかなかった。
飛行訓練を受けることになったと告げられたとき、胸の奥がわずかに熱を持った。
空に近づける。
その事実だけが、現実から少しだけ彼を遠ざけてくれた。
基地での日々は、思っていたよりも厳しかった。
機体は常に不足し、燃料は節約され、訓練時間は短い。教官は口数が少なく、説明は最低限だった。
「考えるな。覚えろ」
それがすべてだった。
同期の中には、恐怖を隠そうとしない者もいた。夜になると、誰かが泣いている声が聞こえることもあった。
少年は眠れない夜、天井を見つめながら、なぜ自分がここにいるのかを考えた。
国のため、家族のため、未来のため――
教えられた言葉はいくつもあったが、どれも自分の心にぴったりとは合わなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
ここに来る前よりも、空が近くなったということだ。
ある日、正式に命が下った。
特別攻撃隊――神風特攻隊への編入。
誰も声を上げなかった。
拒否できる選択肢など、最初から存在しない。
出撃前夜、整備兵の年上の男が、機体を磨きながら話しかけてきた。
「怖いか」
少年は少し考え、正直に答えた。
「分かりません」
男は苦笑した。
「それでいい。怖さが分からないうちは、まだ人だ」
その言葉の意味を、少年は深く考えなかった。
ただ、その声が不思議と胸に残った。
翌朝、空は澄んでいた。
不自然なほど、何もかもがはっきり見えた。
操縦席に座ると、身体が自然に動いた。手順は覚えている。考える必要はない。
滑走路を進み、速度が上がり、やがて地面が離れる。
高度を取るにつれ、世界は静かになった。
村も、畑も、人の形も、すべてが遠ざかる。
彼は思った。
もし、違う時代に生まれていたら。
もし、戦いのない空があったなら。
そんな仮定に意味はないと分かっている。それでも、心は勝手に描いてしまう。
目的地が近づく。
無線が短く鳴る。
少年は、ふと自分の胸に問いかけた。
――自分は、何を残せるのだろう。
答えは出なかった。
だがそのとき、遠くの空に、一羽の鳥が見えた。
こちらには気づいていない。命令も、国も、戦争も知らない存在。
少年は、わずかに口元を緩めた。
「ああ……」
声にならない声が漏れる。
その瞬間、彼は理解した。
自分が空を好きだった理由を。
それは、壊すためでも、証明するためでもない。
ただ、自由に存在するものが、そこにあるからだ。
機体は進み続ける。
選択はもう戻らない。
それでも――
誰かが、いつか、この空を見上げる日が来るなら。
その空が、今より少しでも静かであるように。
少年は操縦桿を握り直し、前を向いた。
朝の光は、変わらず世界を照らしていた。
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