第8章 血の娘、茨の母
「やっとお目覚めですね、ロアとお呼びしてもよろしいですか?」
その声は、柔らかくも艶を帯びていた。
朝の光を裂くようにカーテンが開かれ、眩い光が室内を満たす。
そしてその光の縁に、一人の女が座る。
ロアは、寝台の縁に腰を下ろしたその女を、呆然と見上げた。
彼女は長身で、すらりとした体躯をしている。自分よりも頭一つほど高いだろう。
精緻で整った五官はまるで神々の彫像のようで、目元には研ぎ澄まされた英気が宿っている。
赤い長髪が寝具の上に流れ、微かに鉄と血の匂いが空気を満たした。
――血棘の芳香。
ロアは、幼い頃に両親に連れられて面会した「荊棘騎士」のことを思い出した。
その冷厳で高貴な騎士も、同じ匂いを纏っていた。
けれど、今、目の前にいるこの女の香りは、それよりもずっと濃密で、まるで生の血潮そのもののようだった。
窓辺から差し込む光が、女の頬に金の縁を描く。
その横顔は、美しく、そしてどこか恐ろしくもあった。
「あ、あ……あなたは誰? ここはどこですか?」
ようやく声を絞り出すロア。
だが、言葉と同時に頭をよぎるのは、ここが――女が上位に立つ世界であるという現実だった。
男女の価値観が逆転したこの国で、裸のまま見知らぬ女と同室。しかもベッドの上。
それが意味することを、理解した瞬間、血の気が引いた。
慌てて上体を起こそうとした拍子に、掛け布団が滑り落ちる。
象牙色の肌が露わになり、春光のように淡く輝いた。
ロアは、ようやく気づく。――自分が何も身につけていないことに。
顔が熱を帯び、咄嗟に布団を掴み、胸元を覆った。
「ふふっ。」
女は避けようともしない。
むしろ愉しむようにロアを眺めている。視線は彼の整った顔立ちから鎖骨へ、そして滑らかな肌へと降りていく。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。――もう全部、見たもの。」
艶やかな微笑と共にそう囁くと、唇の端で名残惜しそうに舌を動かした。
「いい育ち具合ね。」
ロアは思わず声を荒げた。
「い、一体あなたは誰なんですか!」
「私? 私はイランダニ。」
女――イランダニは、子猫のように警戒するロアを見て、楽しげに微笑んだ。
「あなたは今、荊棘宮の中にいるわ。ここは私の部屋。」
「……勲爵殿下……?」
その名を聞いた瞬間、ロアの胸が跳ねた。
イスラン家の民にとっても、「イランダニ」の名は噂で聞くことがある。
荊棘大公の後継者――血の系譜を継ぐ女。
大公の継承は、常に謎に包まれてきた。
どの時代でも、後継者の存在は突然現れ、荊棘の冠を戴き、力の座を奪い取る。
それはまるで、女神が血の契約によって娘を選ぶかのようだった。
だが、その“娘”が今、目の前にいる。
そして――彼女の視線は、明らかに穏やかではなかった。
イランダニは、ゆっくりと腰をずらし、ロアの逃げ道を塞ぐ。
まるで雌獣が獲物を追い詰めるように、彼の背を壁に追い込んだ。
「たとえ勲爵様であっても、あまりに無礼ではありませんか!」
ロアの声は震えていた。
イランダニは小さく笑う。
「無礼? ――もっと無礼なことだって、できるわよ。」
囁きながら、彼女はロアの掛け布団へ手を伸ばした。
ロアは焦り、反射的に足を上げる。
しかし、その足首をイランダニが掴んだ。
冷たい指が肌に絡みつく。
ロアの足は小さく、白磁のように滑らかで、完璧な形をしている。
イランダニはその光景に、ほんの一瞬見惚れた。
ロアはその隙に足を引こうとしたが、強く握られて動けない。
(この女……まさか、本気なのか!?)
「あなた……」
ロアは震える声で叫んだ。
「私は大公に差し上げられる男だ!」
言ってしまった瞬間、顔が真っ赤になった。
(……なにを言ってるんだ、俺は……)
女尊の常識が、知らず知らずのうちに己の口を支配していた。
だが、その言葉を聞いたイランダニの表情が、冷たく変わる。
掴んだ手に力を込め、ロアの足首が悲鳴を上げた。
「……まさか、あの狂人が楽しむものなら、私が遊んではいけないとでも?」
その声音には、憎悪とも嫉妬ともつかぬ感情が混じっていた。
ロアは痛みに顔を歪め、息を詰める。
イランダニはその表情に、ぞくりとした快感を覚えた。
唇を舐め、そして――手を離す。
だが安堵の暇もなく、彼女は再びその手でロアの首を掴んだ。
親指が喉を押し上げ、ロアの顔が強制的に上を向く。
「あなた、自分が何に直面しているのか分かってないのね。
――自分が“公爵夫君”になれるとでも思っているの?」
彼女の紅い瞳が、真っ直ぐにロアを射抜いた。
「私は……そんなつもりはありません。
大公様が、私に“お仕えするよう”命じられただけです。」
「“お仕えする”?」
イランダニは、低く笑った。
「なら、知っているかしら?
――これまで母に仕えた男たちが、皆どうなったのかを。」
ロアは呆然と首を横に振る。
「噂くらいは聞いたことがあるでしょう?」
イランダニは囁くように言い、冷たい真実を告げた。
「私の母。この代の棘罪大公は……もう完全に狂っている。
彼女に近づく者は皆、血の糧とされ、吸い尽くされて死ぬの。」
その声には、恐怖と憎悪、そして微かな憧憬が混じっていた。
「――そして、あなたは次の生贄というわけ。」
ロアの喉がひゅっと鳴った。
イランダニはゆっくりと微笑む。その笑みは、母とまったく同じ、茨の花のように美しく冷たかった。