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第7章 深淵に囁く美神の契約

「ロア、あとはあなた自身に任せるしかないわ……」

叔母は、邸宅のワインセラーに一人立っていた。

その細い目には、いつもの冷酷さとは違う、複雑で言葉にできない感情が宿っていた。

彼女がセラーを出ようとしたその瞬間――

背後から、しゃがれた咳の音が響く。

「ケホ……お前たち、勝ったとでも思っているのか?」

秘淵教の主祭、アンネの豊満な体は茨に貫かれ、宙吊りにされていた。

奇妙なことに、血は流れていない。

血のような色をしたその茨は、まるで彼女の体内から生命を吸い上げるように、脈打ちながら微かに収縮していた。

通常の人間ならば、とうに死んでいるほどの傷。

だが、アンネはなおも息をしていた。

顔を上げ、裂けた唇で、不気味な笑みを浮かべる。

「……」

ロアの叔母は冷ややかに目を細め、この邪教徒とこれ以上言葉を交わす気はなかった。

血茨に貫かれた者は、全身の血液を吸い尽くされ、やがて塵と化す。

だから彼女は振り返ることなく、静かにセラーを後にした。

「ケホ……偉大なる神はすでに聖杯を……フフフ……ケホ……聖杯を手に入れたぞ!

ハッハッハッハッハ……!」

ワインセラーから、狂気に満ちた笑い声が響き渡る。

そのすぐ後――上層から炎が落ち、すべてを飲み込んだ。

イスラン邸は、夜の終焉とともに灰燼へと帰した。

――体が、沈む。

どこまでも深く。

どこまでも、冷たい闇の底へと。

ねばりつく触手が足首を掴み、蠢く闇が全身を引きずり込む。

冷たく湿った何かが、肌を這い回った。

抗う力など、もう残っていない。

けれど、ふいに引きずり込む感覚が消え、代わりに――冷たい抱擁があった。

それは、かすかに血の錆びた匂いを帯びていた。

ロアは溺れる者のように、その抱擁に縋りついた。

それが茨であったとしても、彼にとっては唯一の命綱だった。

そのとき――澄んだ女性の声が、闇の中で囁く。

ロアは耳を澄ませようとしたが、声は霞のように遠く、言葉の意味は掴めない。

やがて声は歪み、澄明からしゃがれへ、神聖から邪悪へと変わっていった。

空気が震えた。

どこからともなく、荘厳な聖歌のような旋律が流れ出す。

幼い童声と、しゃがれた女声が重なり合い、邪悪な聖契を詠唱した。

「八はわが聖数なり。

我は汝を八年間、庇護せん」

女声は邪悪で、空洞の奥から響いた。

それに呼応するように、幼く澄んだ声が続く。

「汝の力は我がために用いられ、

汝の眷属は我が意のままに駆使されん」

「八年後、汝は深淵に堕ち、我のものとならん」

「我が魂は汝に喰われ、我が躯体は汝が寄宿せん」

最後に、二つの声が重なり合う。

「――ここに、人神共尊の契りを結ぶ」

その瞬間、世界は閉ざされた。

凡人が悪魔に差し出せるものなど、魂と血肉しかない。

ゆえに、悪魔との契約は常に一方的な捕食だ。

だが、この世界にはひとつだけ救いの法則が存在する。

――約束の刻、悪魔が代償を徴収できなかったならば。

その瞬間、悪魔は契約に敗れ、獲物を失う。

それが人を護る掟なのか、あるいはさらなる誘惑なのかは分からない。

けれど、幼いロアには選択肢などなかった。

彼は深淵の杯を飲み干し、契約を受け入れた。

その代償として、八年後。

美神ヴィーナスは深淵より現れ、ロアの魂を喰らい、彼の肉体を器とする。

――そして、悪魔は陽の下を歩く。

それがすべての始まりだった。

以後、主祭アンネは神託を受け、彼の傍に潜み、魔術と薬でロアの心を蝕んだ。

悪魔の嗜虐は周到だ。偶然も慈悲も存在しない。

彼女たちは、最初から“結末”だけを楽しむのだ。

もし棘罪大公の御意がなければ。

もし叔母の強欲な策がなければ。

ロアは、すでにこの世にいなかっただろう。

だが、それもまた偶然なのか。

――いや、本当に偶然なのか?

記憶が、すべて繋がった。

ロアは思い出した。

契約の瞬間、そして「堕落美神ヴィーナス」の真の姿を。

イスラン家の領地は「永夜の境界」にある。

寒冷な気候、一年中舞う雪。昼は短く、夜は長い。

時に何ヶ月も太陽が昇らない――ゆえに人々は、そこを“永夜”と呼んだ。

この地には夜にまつわる多くの伝承があり、

その中に「夜叉(やしゃ)」と呼ばれる魔物の物語がある。

曰く、最初の夜叉は、かつて辺境領主家の女中だった。

彼女は主家の末の息子に恋をし、その美貌は国中に知られていた。

だが、女中は醜く、身分も低かった。

恋心は胸の奥に押し殺すしかなかった。

やがて末の息子は病に倒れる。

領主は救う者に息子を嫁がせると宣言した。

女中は命を賭して霊薬を探し、ついに“死者をも蘇らせる薬”を手に入れる。

――だが、物語は幸福には終わらない。

息子は醜い彼女を拒み、別の美女と密かに愛を誓った。

領主もまた、約束を破った。

その瞬間、女中は怒りと嫉妬に狂い、深淵に堕ちた。

そして悪魔となった。

それ以来、夜叉は夜に現れ、美しい少年を狩る。

自ら美しい女へと化け、男を誘惑し、交合の最中にその魂を喰らう。

奪われた肉体は新たな夜叉となり、同じ狩りを繰り返す。

――美しいものを憎み、愛する者を喰らう。

それが夜叉の本能。

そして、長い時を経て、彼女は“美神ヴィーナス”と呼ばれるようになった。

「ここは……どこだ……?」

ロアは、まぶしさにまつげを震わせながら目を開けた。

部屋の片側では、湖のように青いカーテンが引かれている。

久しぶりの日光が、寝台に降り注いでいた。

――長い夜は終わったのだ。

ベッドの傍らに、人影が立っている。

首を傾けると、その人物の胸元には、血のように赤い茨の紋章が輝いていた。

陽光の下で、それは神聖にも、そして不吉にも見えた。

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