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第6章 茨の姫と血の贈り物

どうすれば、自分には到底太刀打ちできない敵に抗えるのだろうか?

――答えは簡単だ。

同じく強大で、そして恐ろしい別の存在を呼び寄せること。

同盟者が見つからないなら、もう一人、自分を狙うほどの強敵を呼べばいい。

幼いロアは、自らの身を悪魔と邪教の視界に晒した。

彼は誰よりも知っていた。

「契約」という言葉が、自分を守ってはくれないことを。

そして、棘罪公国の頂に、誰も逆らえぬ存在――

“棘罪大公”がいることも。

その名は、恐怖と畏敬をもって囁かれる。

公国を建てて以来、代々の棘罪大公がその血を受け継ぎ、絶対の権威で国を統べてきた。

彼女の一声があれば、千の命運が変わる。

かつて永夜の戦いを起こした吸血鬼たちでさえ、その力を恐れ退いたという。

邪教――秘淵教も、幾度となく騎士団に討たれ、今や風前の灯。

だが、その悪意の根は決して消えてはいなかった。

「大公の目に留まることさえできれば――」

ロアはその一縷の希望にすがった。

それだけが、悪魔の鎖を断ち切る手段かもしれないのだから。


荊棘領の郊外。

イスラン荘園の外れに、二つの影が並んでいた。

一人は低い背丈に丸い体躯、顔には細かな皺が刻まれ、細い目は常に人の顔色を窺っている。

もう一人は対照的に高く、背筋を伸ばして立っていた。

黒地に金糸の刺繍が施された乗馬服の上に、白いフリルのブラウス。

腰まで届く長い髪を無造作に背に流し、脚にはハイヒール付きのブーツ。

その姿には、気まぐれな優雅さと、王者の無関心が漂っていた。

「イランダニ殿下。あの秘淵教の残党ども、もう待ちきれぬようでございます」

ロアの伯母――イスラン家の代行当主が、腰を折って言った。

その声音には媚びと恐れが滲んでいる。

イランダニは答えず、ただ風に乗るバラの香りを微かに嗅ぎ、唇に淡い弧を描いた。

「――“美神の薔薇”の主祭ね」

彼女は静まり返った荘園を見つめたまま、冷ややかに呟く。

「ということは、母上への贈り物もその中に?」

「はい、殿下。私の甥が中におります」

伯母はひれ伏し、震える声で続けた。

「殿下と大公様のご慈悲を……この手で献上できず、申し訳ございません」

「ふふ、気が利くわね」

イランダニの声は冷たく澄みきっていた。

「母上に差し上げるもの。誰か知らぬ者の手垢で汚されては困るわ」

彼女の言葉が終わると同時に、大地が低く唸りを上げた。

地の底からすすり泣くような音が響き、次の瞬間――

無数の血色の影が、土を突き破って噴き上がった。

泡立つような光の膜が荘園を覆っていたが、赤い茨はその膜を針のように貫き、

水面のように揺れる光が弾け飛んだ。

荘園の静寂は破られ、内部からは獣の咆哮と人々の悲鳴が交錯する。

かつての使用人たちは、何が起きているのか理解もできず、次々と闇に呑まれていった。


荘園の中。

影に潜んでいた野獣たちが飛び出し、無差別に人を襲い始めたが――

それよりも早く、血色の茨が彼らを捕らえた。

鋭い棘が獣を貫き、吊り上げ、粉々に裂く。

蠢く黒い毛皮の下には、なお口が並んでいたが、次の瞬間には全てが赤い花弁に変わり、

やがて黒泥となって溶けていった。

「――“美神”が放った悪犬、影獣ね」

イランダニは平然と歩を進めた。

彼女のロングブーツが血濡れた床を叩くたび、甘い香りが広がる。

伯母はその背を追いながら、震える膝を押さえつけるように歩くしかなかった。


その頃、ロアはもう限界に近かった。

血が滴り、理性が遠のいていく。

バラの香りの中に、もっと濃厚で、甘く――神聖な匂いが混ざっていた。

それは、血の香りだった。

「血が……こんなにも甘いなんて……」

ロアの唇が震え、

天井から逆さに吊るされたアンネが、恍惚とした声を漏らした。

「なんという至高の血……。伝説の“聖杯”も、これには及びませんわ」

深淵の底。

黒霧が渦巻き、ぬめる泥が噴き出し、骨を噛み砕くような音が響く。

「もうすぐ……始まりますわ……」

アンネの身体が震えた。

悪魔が純潔の仔羊を喰らう瞬間――それは、彼女たちにとって祝祭だった。

ロアの瞳が虚ろに開き、口元がわずかに動く。

「……なんと、美しい光景だ……」

アンネの喉が熱くなり、唇を震わせた。

触手がロアの首に絡みつき、一滴の血を貪る。

深淵の中では、黒き口が開かれ、獣の咆哮が轟いた――

だが、その瞬間。

天から血色の茨が降り注ぎ、巨大な口を貫いた。

悲鳴が爆ぜ、闇が揺らめく。

悪魔は激痛にのたうち、ロアを深淵へ引きずり込もうとするが、

茨が次々と触手を切り裂き、拘束を断ち切った。

ロアの身体は地面に投げ出され、アンネは絶叫する。

「誰だ?! 誰が神の聖宴を――」

言葉の終わるより早く、

茨が天井から伸び、アンネの身体を貫いた。

血の霧が舞い、石室が泡のように崩壊する。

景色が歪み、すべては元の荘園地下――ワインセラーへと戻った。

悪魔の影は消え、ただ触手の名残が黒い泥となってロアの影に吸い込まれていく。


石段を、ゆっくりとブーツの音を響かせながら降りてくる影があった。

イランダニだ。

彼女の服は汚れひとつなく、まるで春の庭園を散歩しているかのように優雅だった。

茨に串刺しにされたアンネを一瞥もせず、ロアのもとへと歩み寄る。

裸のロアは震え、理性を失っていたが、近づいてくる温もりに反射的に抱きついた。

イランダニは軽く眉を上げ、顎を指で持ち上げる。

「……苦しいの?」

ロアはかすれた声で息を吐き、無意識に彼女の腕に頬をすり寄せた。

「なんて……下品な」

イランダニの声音は氷のように冷たく、

その瞳だけが、彼の唇を見つめて燃えていた。

「これが……あなたが母上に贈ろうとした“贈り物”?」

伯母は黙って頭を下げるしかなかった。

「は、はい……殿下。大公様に……ご満足いただけましたでしょうか……?」

イランダニは小さく笑い、

「ふふ……気に入るに決まっているわ」

そして、ゆっくりとロアを抱き上げる。

その抱擁の中に、彼女の胸の鼓動と熱が滲んでいた。

「母上への贈り物。ならばこの娘が持ち帰って検分するのが筋でしょう?」

伯母はただ地に伏し、

「ど、どうか……大公様へのお取りなしを……」

と震える声で言うのが精一杯だった。

イランダニは振り返らず、

ワインセラーを後にした。

背後で、誰も気づかぬロアの影が、

わずかに――蠢いた。

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