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第5章 美神の祭壇で

どうすれば――自分には到底抗えぬ力に、逆らうことができるのだろうか。

わずか九歳のロアは、イスラン領の城の地下に身を潜めていた。

吸血鬼たちは永夜長城を越え、平和協定を破り、ただ女王が求める「聖杯」を探すためだけに、戦火をもたらしたのだ。

高慢な棘罪大公イライザは、国境の民の生死など顧みず、吸血鬼が国境地帯で暴虐の限りを尽くすのを放置していた。

援軍のないイスラン領は抵抗する術を持たず、城壁は破られ、民は虐殺され、両親もまた――幼いロアを守るために命を落とした。

そして次に狙われるのは、自分だ。

このまま見つかれば、血を吸い尽くされるか、あるいは永夜帝国に「極上の献上品」として連れ去られ、あの緋色の女王に差し出されるだろう。

そうなれば、血の奴隷として、身体の最後の一滴の血まで搾り取られ――死すら許されぬ生を味わうことになる。

「いや……絶対に、そんな運命は受け入れない」

追いつめられた幼いロアは、両親の隠し部屋から、家族が長年封印してきた“穢れ”を取り出した。

それは、鎖に縛られた手のひらほどの玉製の彫像。長衣をまとい、フードの下で静かに祈る女の姿をしていた。

だが、その口元には、どこか吊り上がるような笑みが刻まれている。

衣とフードに覆われ、顔立ちは見えない。

それでも――その姿を見つめていると、なぜか確信が胸に湧く。

フードの下には、息を呑むほど美しい顔が隠されているのだと。

この彫像は、かつてイスラン家の先祖が領内で摘発した「秘淵教」の拠点から持ち帰ったものだった。

先祖はこれを“邪教の祭具”と断じ、封印した。

曰く――秘淵教が崇める三柱の深淵の悪魔の一つ、堕落の美神の偶像だと。

「……私の名はロア、ロア・イスラン。

深淵の悪魔、堕落の美神ヴィーナスよ。

もしあなたの中に、かつての神性が一片でも残っているなら――この声を聞いてください」

「私の魂を賭けて、あなたと、人神共通の契約を結びましょう」

ロアは小さな手でナイフを握り、震えながら掌を切った。

赤い血が玉像に滴り落ちると、フードの下から、乾いた笑い声が地下室に響いた。

鎖は錆び、朽ち、音を立てて崩れ落ち――封印は、解かれた。

その瞬間、玉像はまるで生まれ変わったかのように淡く光を放ち、邪悪な微光がロアの瞳を覆った。

気づけば、世界は闇に沈み、足元が消え、ロアは深淵へと堕ちていった。

――そこは夢か、それとも悪魔の領地か。

* * *

……まるで長い夢から目覚めたように、ロアの瞳に一筋の理性が戻った。

自分が転生したのは、思っていたよりずっと早い。

永夜戦争よりも以前、ロア・イスランの身体へ――。

戦争の最中、両親の復讐と領地の民を守るため、幼い自分は追い詰められ、悪魔の力を求め、魂の契約を交わした。

その結果、イスラン領は滅びずに生き延びたのだ。

だがその代償として、美神に仕える邪教徒が現れ、神の御旨と称してイスラン家に入り込み、

爵位を欲した伯母を利用し――薬によって、ロアを少しずつ“神の生贄”へと調教していった。

「……では、なぜ自分は気づかなかったのか。なぜ、何の抵抗もできなかったのか」

かつての自分を思い返す。

あの腑抜けた日々――まるで他人のように意志がなく、操り人形のように動いていた。

「つまり……この邪教徒どもは、催眠のような術を使うのか?

もしあの鎮静剤が偶然にもそれを解かなければ、私は――今でも気づかないままだったかもしれない」

冷や汗が背を伝う。ロアは喉を鳴らし、必死に声を絞り出した。

「お前……秘淵教の人間なのか? 伯母はお前から薬を……いや、最初からお前が伯母を利用していたんだな!」

声を張ろうとしたが、痛みが全身を襲う。

元々痩せた身体は、今や薄い絹のパジャマ一枚を裂かれ、無惨な姿で宙に浮かされていた。

その絹の布は――まるで生命を持つかのように、ロアの四肢に絡みつき、

殿堂の石柱に伸びて、彼を逆さに吊り上げていた。

アンネが軽く手を引くと、ロアの身体は宙を揺れ、細い腰が弓なりに反り返った。

その姿はまるで――繭に囚われた蝶のようだった。

「当主代行など、ただの愚か者ですわ。

あの女がいなくとも、神の御旨のもと、別の者がこの歓喜の儀式を執り行うでしょう」

アンネはうっとりとした笑みを浮かべ、宙に吊るされたロアを見上げた。

玉のような手が、彼の喉仏を撫で、鎖骨をなぞる。

「なんて、魅惑的……。さすが、我が神が選んだ生贄」

「ぺっ、汚らわしい魔物め! この邪教徒!」

ロアは息を荒げ、声を振り絞った。だが、視界が揺らぎ、世界が白く霞む。

アンネは細い眉を上げ、その顔に静かな愉悦を浮かべた。

喉仏の震え、恐怖の匂い――そのすべてが愛おしかった。

「では、坊ちゃま。少しだけ辛抱なさってくださいませ。

……献神の儀が、始まります」

ロアの心臓がきつく締めつけられる。

首筋に触れていた指先が一線を引き、鋭い痛みが走った。

「ぽたり」――。

血の雫が石床に落ちる音が、がらんとした石室に響いた。

逆さに吊られたロアの身体は小刻みに揺れ、逃れられない絹の束縛がその身を締めつける。

「もがかないで。もがけばもがくほど、血は速く流れてしまいますわ」

アンネは慈しむような声で囁き、ロアの頬を撫でた。

ロアの下の石台には、血が滴り落ちるたびに赤黒い光が揺らめき、

その匂いが地下に満ちていく。

周囲の暗闇から霧が立ち上り、渦を巻き、石台の中心に集まっていった。

地面は裂け、底知れぬ穴が口を開ける。

ロアは気づく――自分が、深淵の上に吊られているのだと。

首筋から落ちる血の雫がひとつ、またひとつ、深淵に吸い込まれるたび、

その底から何かが――這い上がってくる。

「なんて……素晴らしい光景でしょう」

アンネは静かに息を吐き、天井に逆さまにしがみついた。

四肢を蜘蛛のように広げ、その瞳を輝かせる。

網に囚われた蝶が美しければ美しいほど――

それが食われる瞬間は、より一層、神聖で、艶やかに見える。

「これほどの堕落があるでしょうか……」

アンネは恍惚の吐息を漏らした。

彼女が仕える“美神”が今、深淵の底から目覚めようとしている。

生贄を喰らい、神性を満たす――その瞬間を見届けるのが、彼女の役目だった。

いわゆる「秘淵教」とは、深淵の力を崇め、悪魔を神と称する教団。

彼らは信奉する三柱の神――美神、愛神、生命の神――を、

“この世に愛と美と救済をもたらす”と説いている。

だが、彼らのいう「美」や「愛」や「生命」が、人間の想像するものと同じとは限らない。

吸血鬼が支配する永夜帝国でさえ、この教団は忌むべき異端として恐れられていた。

――そして、ちょうどその時。

屋敷の外に、夜の静寂を破る足音が近づいてきた。

深淵の儀が始まるその瞬間、招かれざる客が、扉の向こうに立っていた。

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