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第4章 深淵の美神殿

ロアが再び目を覚ましたのは、すでに深夜だった。

清らかな月光が窓枠から水のように流れ込み、薄いカーテンを透かして、銀の霧が部屋の中を漂う。

柔らかな寝具の上でロアはゆっくりと意識を取り戻したが、その麗しい瞳にはまだ夢の名残が滲んでいた。

夢の終わりには、幼い自分が漆黒の霧に飲み込まれ、霧の奥から、咀嚼音と笑い声が響いていた。

――あれは本当に夢だったのだろうか?

それとも記憶の断片か。

元の身体があの石室で何を契約したのか、そして自分はいつからこの世界に転生したのか――思い出そうとするほど霧が濃くなる。

「……夢、なのか?」

息を呑む。身体の内側には、なぜか奇妙な安堵と充足が満ちていた。まるで一晩の眠りで、何かが“戻った”かのように。

「アンネ……どこだ?」

ロアは小さく呟いた。

アンネが“イスランの守護神を呼ぶ儀式”を手伝うと約束してくれたことを、かすかに思い出す。

だが、その直後――夢の中で見た“美神”の砕け散る顔が脳裏をよぎり、背筋に冷たいものが走った。

思わず自分の腕を抱きしめ、月光の落ちる窓を見上げる。

荘園はしんと静まり返り、風の音すら聞こえない。

ロアはベッドから身を起こし、足を床へ降ろした。

冷たい床石が裸足を刺し、ひやりとした感触が現実を思い出させる。

靴は見当たらない。

そのまま、月光に導かれるように扉の方へと歩み、静かに扉を押し開けた。

――廊下には誰もいなかった。

普段なら叔母の命令で、護衛が昼夜問わずロアを監視している。

だが、今夜はその気配すら消えていた。

ロアは痩せた体にパジャマ一枚をまとい、裸足のまま静まり返った廊下へ踏み出した。

音もなく進むその足取りは、まるで夢の続きのようだった。

(これは、現実……なのか?)

闇が蠢く。

長い廊下の奥で、何かがざわめき、微かな音が反響した。

ロアが立ち止まった瞬間――

「坊ちゃま、こちらへ……」

アンネの、あの掠れた声が耳元で囁いた。

懐かしさと同時に、ぞくりとするほどの寒気が背を走る。

まるでその声に引き寄せられるように、ロアは無意識のまま、声の方へ歩き出した。

影が動き、壁の中でひそひそとした囁きが重なっていく。

それは夢の中で聞いた、あの異形の言葉だった。

「……ついに彼は成長した」

「もうすぐ熟す」

「お腹が空いた……」

「飢えている……」

それは、八年の間ロアを見守り続けた悪魔たちの声だった。

彼らは飢え、渇望していた――生命を、血を、そして“聖なる器”であるロアを。

しかし彼らは手を出さない。

なぜならロアは、“真なる主”に供される聖餐。

深淵の眷属であろうと、神の口に運ばれる供物を奪うことは許されない。

ロアの小さな足が、冷たい大理石の床を歩くたびに、空気がわずかに震えた。

中庭に差し掛かると――そこに、見たことのない黒い裂け目が口を開いていた。

螺旋状に下へと続く階段。

まるで地の底へ吸い込まれるような闇の渦。

この屋敷に、こんな通路があるはずがない。

それでもロアの身体は止まらなかった。

夢と現の境界が溶け、心と体がずるずると深淵に引き込まれていく。

どれほど降りただろうか。

気がつけば、目の前にはあの古びた石の扉があった。

背後を振り返っても、そこには無限の闇しかなかった。

息を呑むほどの重圧。

まるで、神域そのものが彼を見下ろしているようだった。

――もう、戻れない。

そう思った瞬間、石扉が軋みながら開いた。

内側から、微かな蝋燭の光が滲み出てくる。

「坊ちゃま、おかえりなさいませ。」

耳元で、あのしわがれた声が囁いた。

温かな手がロアの頬を撫で、次の瞬間、豊かな胸元に頭を抱き寄せられた。

バラの香りが鼻腔を満たし、記憶の奥からあの夜の情景が蘇る。

「アンネ……いや……あなたは……違う。」

ロアは息を呑んだ。

そうだ――最初、アンネという女中など存在しなかった。

彼女が現れたのは、あの日、自分が“イスランの守護神”と契約してからなのだ。

「坊ちゃま……思い出されましたか?」

アンネは優しく微笑み、紫の瞳の奥に黒い霧を渦巻かせる。

その指先が、ロアの首筋をなぞり、滑らかな肌を撫でながら、ゆっくりと襟元へ潜り込んだ。

「……やめて……」

ロアの身体は火照り始めた。

長年服用してきた媚薬の影響もあり、この甘美な誘惑に抗うことができない。

抵抗しようとしたが、力は抜け、アンネの腕に支えられるままになった。

「坊ちゃまは、偉大なる神の寵愛を受けた宝。

 そして、わたくしはその神に仕える者――

 あなたの召使いであり、あなたに仕える資格を持つ唯一の存在です。」

アンネの瞳は熱を帯び、息が荒くなっていく。

偉大な神への奉献。

そして、その神の“愛玩”を独占する背徳の喜び。

ロアの華奢な体を抱きしめながら、アンネは震える指先でその香りを確かめるように撫でた。

薄く開いた唇からは拒絶の言葉がこぼれるが、それすらも彼女には甘美な誘惑だった。

「……偉大な神などいない。

 深淵の底で生き延びている悪魔にすぎない。」

ロアは力なく呟きながらも、アンネの腕の中で抗えなかった。

「神と悪魔に違いなどございません、坊ちゃま。

 あなたはまだ幼い。真理を知らぬだけのこと――」

アンネの声が、石室全体に響いた。

蝋燭の炎が揺れ、影が息づく。

「あなたが契約を交わした神は、秘淵教が崇める三柱のひとり。

 “美神”――我らが至高の御方でございます。」

アンネはロアの頬を撫でながら、微笑を浮かべた。

「ここはその聖地の投影。

 人々はこう呼びます――」

彼女は唇を寄せ、囁いた。

「『深淵の美神殿(しんえんのびしんでん)』と。」

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