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第3章 堕ちた美神とイスランの血

「守護神……か?」

ロアはその言葉を反芻した。

不思議と、胸の奥が熱く疼いた。

まるで――その響き自体に、何かの“力”が宿っているかのように。

イスラン家は、かつて永夜の辺境で興った家系だ。

代々、公国の北の果て――永夜の長城を守護してきた。

そして、その長城の向こう側には……

血色の王国。吸血鬼たちが支配する「夜の国」が広がっている。

そこでは人間も亜人も、ただの“餌”にすぎない。

朝日は昇らず、永遠の夜が続く。

長城の戦が起きるまでは、両国の間には長い平和が続いていた。

――あの、紅の女王が即位するまでは。

その瞬間から、吸血鬼の瞳は再び人間の地へと向けられたのだ。

ロアがこの世界について知っているのは、前身が残した断片的な記憶だけ。

血を糧とする吸血鬼、聖堂の神官、戦場を駆ける騎士たち……

そして、雪原をさまよう枯れた死霊。

だがその中に、「イスラン家の守護神」という存在の記憶はなかった。

――前身の両親が、彼を過剰に庇護していたからだろうか。


「アンネ姉さん、信じるよ。

どうすれば、守護神を召喚できるの?」

ロアは微かな不安を抱えつつも、他に道はなかった。

この屋敷で彼を信じられるのは、アンネだけだ。

「坊ちゃま……わたくしが手伝います。」

アンネは静かにロアへ身を寄せ、耳元で囁いた。

その吐息が頬を撫で、黒い霧のような何かが彼女の瞳に浮かぶ。

「今夜のうちに、わたくしの言う通りにしてくだされば――

あの“大公”に、あなたを渡しません。」

最後の一言は、溶けるように小さく、掠れていた。

ロアの意識が、ふっと霞み始める。

体の奥が熱くなり、視界が滲み――倒れかけた身体を、アンネが抱きとめた。

彼女はそっと膝の上にロアを寝かせ、優しく髪を梳いた。

頬に触れる指先は、妙に冷たくて、それでいて甘やかだった。

「……もうすぐです。長い間、育ててきましたから。ようやく、熟しましたね。」

彼女の声は微笑に滲んでいた。

艶やかな唇が、幼い坊ちゃまの顔を撫でるように歪む。

「“棘罪”などという狂人に、あなたを奪わせたりはしません――。」

その声を最後に、ロアの意識は完全に闇に沈んだ。


夢の中。

濃密な薔薇の香りが満ちていた。

ロアは屋敷の中を一人で歩いていた。

誰もいないのに、暗闇の奥から何かがこちらを見ている――そんな気配がした。

廊下を抜け、庭を通り、螺旋階段にたどり着く。

上ではなく、下へ。

果てしなく、深く。

「この屋敷に……地下なんてあったか?」

考えた瞬間、影が蠢いた。

低い囁き声が、無数に重なって聞こえる。

それは人の言葉ではなかった。

獣の唸りにも、金属の擦れる音にも似ていた。

だが不思議と――ロアは意味を理解できた。

『彼はまだ幼い……』

『なんて、魅力的……』

『聖なる肉を、捧げよ……』

冷気が背骨を駆け上がり、ロアは夢の中で震えた。

それでも足は止まらない。

やがて彼は、一枚の石の扉の前にたどり着く。

扉はすでに開かれていた。

中では、無数の蝋燭が揺らめいている。

「――坊ちゃま、ようこそ。」

中で待っていたのは、フードを被った人影。

高壇の上、ゆっくりと立ち上がる。

「私は長い間、お待ちしておりました。」

足元の床は冷たく湿っていた。

蝋燭の列が、まるで儀式の道のように高壇へ続いている。

ロアは小さく息を呑んだ。

「あなたは……誰?」

幼い声が響く。

それはまだあどけない、けれども不思議と冷たい声音だった。

――幼少の頃の記憶なのかもしれない。

「坊ちゃま、私は“イスランの守護神”です。」

フードの下の顔は影に隠れ、見えない。

けれどその存在から発せられる圧だけで、息が詰まるほどだった。

「……私の名はロア。ロア・イスラン。

この名の下に、契約を結ぶ。」

幼い彼の声には、微塵の怯えもなかった。

その堂々たる眼差しは、まるで古の王族のようだった。

「フードを取れ。」

「仰せのままに。」

布が滑り落ちると、そこに現れたのは――

この世のものとは思えぬ美貌だった。

紫の瞳が、闇の中で妖しく光る。

その一瞥だけで、息を飲んだ。

ロアは思った。これほどの美は、もはや“神”ではない。

「……イスランの守護神は、“美の神”なのですか?」

「ええ、そう呼ばれていた頃もありました。」

女は微笑んだ。

一瞬、蝋燭の火が揺れるのをやめたほどに。

だが、幼いロアの瞳には迷いはなかった。

「美の神は堕ちた。

あなたは――その残骸を喰らった悪魔だ。」

その言葉が放たれた瞬間、空気が裂けた。

女の美しい顔に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。

そこから黒い霧が噴き出した。

「……ほう。坊ちゃま、度胸だけは大したものです。」

嗄れた声が、闇の奥で笑った。

黒霧が石室全体を覆い、ロアの小さな体も呑み込んでいく。

「それでも、契約を望むのですか?」

「そのために来た。」

その言葉とともに、霧の中から少年の声が響く。

――そして次の瞬間、

ぞっとするような、狂気の笑いが石室を満たした。

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