第2章 優しき嘘、そして夜の契約
伯母が実権を握って以来、かつてロアと親しかった使用人たちは次々と追い出され、家に残ったのは伯母の息のかかった者ばかりだった。
今となっては、ロアが唯一頼れる存在は──アンネただ一人。
アンネはイスラン家の執事であり、ロアの両親にも仕えていた古参の使用人だった。
なぜか伯母は、彼女だけは追放していない。
その理由はわからないが、今となっては彼女こそが唯一の味方だ。
ロアはベッドの上で小さく息をつき、再び体を起こした。
体はまだ弱りきっており、このイスラン家が所有する荊棘領の荘園から逃げ出すのは、今の自分には到底不可能だ。
そう──ロアはすでに伯母によって、この荊棘領へと連れてこられていた。
七日後に行われる棘罪大公の誕生日に出席するため、そして「献上品」として。
伯母はその日のために、ロアを完璧に飾り立てるつもりでいる。
つまり、あと七日後には──地獄が待っているということだ。
「……何とかしてアンネに連絡を取らなければ」
そう思ったまさにその時だった。
静まり返った部屋に、控えめなノック音が響く。
「坊ちゃま、お目覚めになりましたか?」
その声を聞いた瞬間、ロアの胸が跳ねた。
だるく、それでいて優しい、聞き覚えのある声。
──アンネだ。
「アンネ姉さん! 目が覚めたよ、早く入って!」
ロアは思わず声を上げた。
たった今、どうやって彼女に連絡を取ろうか考えていたばかりなのに……まさか自分から来てくれるなんて!
だが、次の瞬間。
自分の声を聞いたロアは、軽く戦慄した。
(……何だこの声!?)
それは透き通るように甘く、儚い。
まるで声変わりを迎える前の少年のような、いや──それ以上に繊細な響きだった。
長年、曼陀羅薬(チョウセンアサガオの根)を服用していたせいか、わずかに震える語尾が妙な艶を帯びている。
(いや、これは反則だろ……! これが地声とか、どういう身体構造なんだ!?)
そんな内心の混乱をよそに、ドアが静かに開かれた。
純黒の膝丈ロングスカートに、白いレースのエプロン。
背の高い女性が、まるで絵画から抜け出したかのような優雅な動作で部屋に入ってくる。
それがアンネだった。
アンネの服装はごく標準的なメイド服だが、彼女が着るとまるで儀式服のように見える。
黒いストッキングに包まれた脚はすらりとして美しく、整った顔立ちは「七分の美」と言うに相応しい。
ロアの美貌には及ばないものの、その身体は豊満で、曲線のすべてが完璧だった。
ロアは一瞬、目を逸らすことができず──視線が、彼女の胸元で止まる。
そして気づいた瞬間、慌てて顔をそむけた。
(まずい、完全に見てた……!)
アンネはそんなロアの仕草を見逃さず、微かに唇の端を上げる。
「坊ちゃま、鎮静剤の匂いがしますね」
ベッドに近づいたアンネは、わずかに眉をひそめた。
次の瞬間、彼女は身をかがめ、ロアの首筋に顔を寄せ──まるで匂いを嗅ぐように鼻先を近づけた。
淡い薔薇の香りが、ロアの鼻をくすぐる。
彼女の吐息が髪をかすめ、体の芯がぞくりと震えた。
「ち、近すぎる……っ!」
ロアは思わず声を漏らしたが、動けない。
長年の薬の影響で、異性の過度な接近に耐えることができなくなっている。
(ダメだ、心臓がうるさい……!)
やがてアンネは立ち上がり、表情を引き締めた。
「坊ちゃま、今の身体では鎮静剤を服用してはいけないと申し上げましたよね?
不注意が重なれば、永遠に目覚めないこともあります。……嘘をついてはいけません」
その眼差しは一瞬、氷のように冷たく光った。
しかしすぐに元の穏やかさに戻り、淡々と続ける。
「棘罪大公の誕生日まで、あと七日です。坊ちゃま、ご自身の身体を大切になさってください」
(……おかしい。アンネも伯母とグルなのか?)
ロアは心の奥が冷たくなるのを感じた。
試してみるしかない。
彼は小さく息を吸い込み、アンネを見つめた。
「アンネ姉さん……僕、わかってる。鎮静剤を飲んだのは間違いだった。でも、怖かったんだ。
お願い、僕をここから連れ出してくれない? 僕は、大公に献上されたくない!」
切実な声。
アンネの長いまつげが震え、わずかに視線を伏せた。
「坊ちゃま……棘罪公国の中で、大公に逆らえる者などおりません」
その声には、哀しみが滲んでいた。
「大公が坊ちゃまを“選んだ”時点で、すべては決まってしまったのです。
イスラン家はその命を拒むことはできません。──あなたは先代女公爵の嫡子として、責任を果たすべきです」
「僕が果たすべき責任って、毎日媚薬を飲んで“おもちゃ”になることなのか?」
ロアの叫びに、アンネは表情を変えずに言葉を繰り返す。
「坊ちゃま、イスラン家は大公を拒否できません」
しかし次の瞬間、彼女はふっと笑みを浮かべ、細い目でロアを見つめた。
その瞳の奥には、何か別の光があった。
ロアはそれに気づかず、苛立ちをあらわにして言う。
「じゃあ、僕に死ねって言うのか!? 僕こそがイスラン家の後継者だぞ!」
アンネはその言葉に、ようやく笑みを消した。
しばしロアを見つめ、ゆっくりと口を開く。
「坊ちゃま……あなたがもっと早く、その覚悟を持っていれば──
きっと、ここまで追い詰められることはなかったでしょうね」
ロアははっとして、彼女を見つめ返した。
アンネは静かに手を伸ばし、ロアの青い髪を優しく撫でた。
「大丈夫です、坊ちゃま。……わたくしがお手伝いします。
今なら、まだ間に合います。ですが一度“大公”に献上されてしまえば……もう、何もできません」
(アンネ姉さん……やっぱり、味方だったのか?
前身が伯母に従っていたのは、家を守るためだったのか?)
「じゃあ……アンネ姉さん、僕を助ける方法があるの?」
問いかけに、アンネはすぐには答えなかった。
ただ静かに、逆に問い返す。
「坊ちゃま、家代行がなぜ、わたくしを追放しなかったか……ご存知ですか?」
「そうだ……なぜ他の使用人は全員入れ替えられたのに、アンネだけが残ったんだ?」
ロアが沈黙すると、アンネは小さく息をつき──口を開いた。
「坊ちゃま、わたくしたちイスラン家が永夜辺境で戦功を立て、爵位を得た理由……
それは、“家族の守護神”を持っているからです」
「守護神……?」
ロアは思わずつぶやく。
前身の記憶の断片が、脳裏で弾けた。
吸血鬼、教会、騎士──この世界にはすでに超常が存在している。
ならば、「守護神」がいてもおかしくはない。
「はい。イスランの血を継ぐ者だけが召喚できる守護神です。先代女公爵はあまりにも突然逝かれました。そのため、継承の儀をあなたに授けることができなかったのです」
アンネは一歩近づき、ロアを見つめる。
その瞳には、どこか決意のような光が宿っていた。
「今夜、儀を行います。棘罪大公と正面から戦うことはできませんが──少なくとも、坊ちゃまを荊棘領から逃がすことはできます」
そう言う彼女の瞳に、ロアの美しい姿が映り込んでいた。
その奥底で、まるで闇が蠢くように揺らめいていることに──ロアはまだ気づいていなかった。