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第二話 レヴィアの嘆き

「母は死ぬのですか」

 貧しい寒村の外れでは、少年と老婆が対峙していた。黴臭い納屋の奥に三十を過ぎた頃の女が寝かされている。

「母さまにあまり近づいてはいけないよ。流行り病に罹ってしまったんだ」

 老婆は弓のように曲がった背を苦しげに叩きながら、歯の抜け落ちた口で少年に言った。

「もうじき冬がくる。食い扶持は少ないほうがいい」

 白髪の目立つ、痩せこけた母の寝姿。肌は黄ばみ、呼吸は浅い。

「早いうちに楽にしてやったほうが、母さまも喜ぶじゃろう」

 長男だった少年が十を数えるうちに、他の弟妹はことごとく死んでしまった。父は物心ついたときからいない。生きているのかすらわからない。病人用の寝具に寝かされた母親だけが、少年にとって唯一の家族だった。

 老婆が隔離用の家屋に立ち塞がり、少年は母に会うことが叶わない。

「死んだ弟妹は僕がすべて土に埋めました。それでもなお、母を助けないとおっしゃるつもりですか」

「その治してやれる手立てがないのだ」

「ならば僕が手立てを考えます」

「バーレムまで行くつもりか? 子供の足で行って戻る頃には、母さまはとうに死んでいる。おぬしの我儘は母親の苦痛を長引かせるだけよ」

 そして、少年の目に涙が溜まる。

「……よくもまあ利口に育った子供じゃ。だからこそ、わしもその場しのぎの嘘などつかん。世には罷りならんことが多くある。どうかわかっておくれ——」

 

 *

 

 背に広がる、硬く冷たい感触。

 長い夢を見ていたような気がする。だが意識は徐々に引き戻され、覚醒と眠りの狭間にラクルンツェはいた。宙に浮いたような気分のなかで、ただ目覚めなければならないという焦燥があった。

 ある瞬間、彼は糸が切れたように勢いよく上半身を起こす。流れ落ちる額の汗で視界が滲んだ。ここはどこだ、と首を忙しなく動かす。ここへ至るまでの記憶が曖昧だった。

 洞窟のようだ。灯りはなく、外は吹雪で何も見えない。洞窟のなかで聞こえる風の音が地鳴りのように響き渡る。彼は心細さに背を丸めた。だがわずかに感じとった人の気配に反応して全身が強張り、反射的に外に繋がる洞窟の穴に目をやった。

「あら、起きたのね」

 亜麻色の布を纏った女が、肩や頭に降り積もった雪を払いながらそう告げる。かぶりが下げられると、緑色の宝石のような瞳と長く艶やかな黒髪があらわになった。名は確か、フィリア。

「君がここまで僕を運んだのかい」

「ええ、骨が折れる作業だったわ」

 フィリアの手には籠のようなものが握られていた。視線に気づいた彼女はふっと笑い、

「お腹すいたでしょう。森でとってきたの」

 木の実や果物などがずらりと並べられる。

「あ、ありがとう」

 指先ほどの大きさの赤い果実を躊躇しながらも口に放り込む。ラクルンツェは口内に広がる酸味に顔を顰めた。しかし背に腹は変えられない。舌に優しくない食事を続けていれば、フィリアは楽しげにその光景を眺めている。

「ラクルンツェ、さっきはひどくうなされていたわね」

 彼が一息つくと、フィリアは言った。

「なんだか悪い夢を見ていたみたいだ」

「それは、どんな夢?」

「さあ……はっきりとは思い出せなけど、子供の頃の記憶だったような」

「やっぱりあなたは……いえ、この話はラクルンツェが落ち着いてからにしましょう」

 フィリアは考え込む様子でぶつぶつと呟く。彼を安心させるように微笑むと、袖を上げて透き通る肌を見せた。

「——火よ、燃えあがれ——」

 彼女の手の先には積み上げられた薪があった。すると瞬く間にそれらが燃え上がる。目を疑う光景にラクルンツェは釘付けになる。

「どう、暖かいでしょう」

「……君は魔女なのか?」

「この力を奇跡とするか魔とするか、その解釈によるけれど」

「何もないところから火を生み出すだなんて、初めて目にした」

「いまさら驚くことでもないわよ。きっとこの世界にいれば、もっとおかしな現象に遭遇するわ」

 この世界。

 ラクルンツェは突拍子もないその言葉を反芻した。

「はっきりいって僕にはここがどこなのかまったくわからない。ここはいったいなんなんだ」

「そんなこと、知ろうとする必要はないわ」

 フィリアは冷たく突き放す。まるで、物を知らない幼子をあやすように。無言の睨み合いが続くと、フィリアが先に溜息をついた。

「今はただ休んでいてちょうだい」

 そう告げて、彼女はラクルンツェに歩み寄る。そして肩を掴むと、男の身体を軽々と倒す。反抗しようとラクルンツェは力を入れるが全身に電撃のような痛みが走り、情けない声をあげるのだった。

 ぱち、と焚き火から音が鳴る。それがラクルンツェの降伏の合図だった。寝かしつけた頭の横にフィリアは足を崩して座る。ラクルンツェは布の下に白い肌を見つけ、天井に視線を戻したきり彼女の方に顔を向けなかった。

「いいことを思いついたわ! あなたがぐっすりと眠れるように、お話をきかせてあげましょう」

「いや、もうじゅうぶん眠ったよ」

 そうは言うが、フィリアが起こしてくれた火のおかげで体が暖まり、すでに眠気がやってきていた。

 フィリアは付け加える。

「どのみち雪が止むまですることはないわ」

「いつ雪は止むんだ?」

「さあ……一時間後か、明日の朝か、はたまた一週間たっても止まないか」

「この土地の天候はずいぶんと気分屋なんだな」

「そう、だからわたしが退屈を紛らわせてあげる。いいでしょう?」

 今度はラクルンツェも何も言わない。不毛な言い争いをする体力などなかった。それに彼女の声は聞いていて退屈しない。まどろむ意識にあっても彼女の口から紡がれる言葉は心の奥底に潜り込んでくる。

 フィリアはゆっくりと話し始めた。

 

「むかしあるところに一匹の賢い獣がおりました。獣はその賢さゆえ、知らないことはないとまで言われていました。森の獣たちは誰もが彼を尊敬していたので、悩み事があればまず彼に相談するのでした」

 ラクルンツェは耳をすませ、その幻想的な風景を思い浮かべた。獣はラパの姿に変換された。そしてラパに相談を持ちかけるのが臆病なヴェラーチェカ。互いに捕食したりされたりする関係であるのに、不思議と違和感はなかった。

「ある獣は言いました。『最近、人間が森深くまでやってきて、ぼくたちを捕まえようとするんだ。もう仲間が数えきれないほどやられた。どうすればいい』。すると彼は問います。『人間と獣の違いは何かね』。獣はくるし紛れに答えます。『人間は二本足で、ぼくたちは四本足だ』」

 臆病なヴェラーチェカは、言ってやったとばかりに鼻を鳴らす。そして賢いラパは表情ひとつ変えず否定するのだ。

「『ならば、空を飛ぶ獣たちを見たまえ。彼らは翼を持ち、足は二本しかないではないか』、獣は口ごもります。じゃあ正解は何? と訊くと彼は『賢いのが人間で、賢くないのが獣だ』と静かに告げます。そう、獣ではあるけれど、とても賢かった彼は、言葉のとおり、本当は人間になりたかったのです」

「しかし、すでに賢いのあれば、わざわざ人間になる必要なんてないじゃないか」

 ラクルンツェが口を挟むが、フィリアは気にせず続けた。

「『我々が人間と同じように考え、怒り、悲しむのだと示そう。獣であることは、己が愚かであることを受け入れるということに他ならない。そのような懈怠の先に未来はない! 諸君、今こそ立ち上がり、我々は獣という存在から昇華しなければならないのだ』。気づけば彼の周りにはたくさんの獣が集まっていました。賛同の合唱が森中に響き渡り、獣たちの声は人里にまで届きました。人間は慌てふためき、何事かと森に足を運びました。すると興奮した獣たちは人間を取り囲みます。それこそが彼の狙いだったのです。獣たちはなにやら喚き立てますが、人間には何を言っているのか理解できません。人間はひどく怯え、ついに武器を捨ててしまいました。彼は言います。『これで我々と人間は対等になった。話し合うことができるのだ。無駄な血をこれ以上流さなくて済むのだ』、と。獣はまず人間の言葉を学びました。それから道具を使うようになり、物はお金で取引さるようになり、一週間は七日間であると決めたのです。そうして人間と獣はお互いに理解しあい、殺し合うこともなく、平和に暮らすのでした……」

 

 フィリアが物語の結末を告げると同時に、吹雪が勢いを増した。

 外がどうなっているのか、果ては自分が何者かさえもわからない。ラクルンツェは閉塞感と孤独に苛まれ、嘲笑うかのように言った。

「きっとその賢い獣は、いずれ同じ獣に殺されるのだろうね」

 フィリアは芝居がかった口調をやめ、不満げに口を尖らせる。

「夢がないひと」

「そうかな、順当に考えれば、まず人間が獣を殺してきた過去はなくならない。そうした心に巣食う憎悪を上書きするには、より大きな、そうするに足る何かが必要なんだ。賢者に従うだけの大勢の獣は、肥大化していく不足感を消化する術を知らないから、わかりやすい方に結局は流れていってしまう」

「だから結果として賢い獣は殺されてしまうというのね」

「ああ」

「意外に理屈っぽいのね、ラクルンツェ」

「そうかな……必要なことだよ」

「でも息苦しいでしょう」

「それは、わからない」

「みんなが思うことなら、きっとそれが正しいことなのよ。森の獣が人間と手を取り合うことを決めたように」

「そうだね、きっとそうなんだろう……」

 どこか遠くを見るように、天井を見つめる。

 その言葉は、ほとんど無意識のうちに発された。

「——だけど僕はあのとき、何を言われようと、バーレムに行くべきだったんだ……」

「バーレム……? それはいったい——っ!」

 ふたりは驚愕に目を見開いた。大地を割るがごとく爆発音だった。

 ——獣だ。 

 野生がただそうあらんとする叫び。そこには悲しみも喜びもない。あるのは根源的な欲求に従い、肉を食い散らかす獣の幻影。

「なんだ」

 ラクルンツェは咄嗟に身体を起こして外の様子を確認しようとする。しかし、相変わらず視界は無きに等しいままだ。何も見えない。

 この感覚を知っている。この白銀の世界で目を覚ましたとき、何もない雪原の上で、必死に逃げたあの時。いや、それよりもかなり近い。本能が警鐘を鳴らし、鼓動が急激に早まる。

 衝撃に焚き火の炎が揺れる。欠けた岩の粒がふたりに降りかかる。石造りの都市などにいればたちまち倒壊した家屋に押しつぶされていただろう。衝撃はやがて収まった。

「心配しなくても、襲ってはこないわよ」

「君はなにか知っているのか? これは獣の仕業か? ここにいたらまずい……逃げないと」

「落ち着いて。大丈夫」

「だが!」

 ラクルンツェの思考は恐慌状態に陥っていた。声を荒げ、フィリアに射抜くような視線を突きつけた。彼女は怯えたように自分自身の手を握りしめる。

「様子を見てくる」

 その言葉を残して、ラクルンツェは洞窟を出た。猛吹雪が彼の進路を立ちはだかる。すさまじい勢いの風が彼の身体を薙ぎ倒さんばかりに暴れる。突き抜けていく空気と雪の塊に目を開けていられず、腕で顔を覆った。

 あれは、およそ通常の獣が発するものではなかった。大地を揺らすほどの威力。この世にあって良いはずのない事象。記憶が失われてもなお異常なことが起きていると否応なく理解させられる。ならばこの目で確かめなければならない。それ以外の選択は彼自身が許容しない。真実は常に道の先になけらばならなかった。それはただ生きることよりも遥かに重要なことなのだ。ただ澱みに流されるだけの泡沫がごとく生き方など、受け入れられはしない。

 森を抜けた。すると、先ほどとは別種の振動を感じ取った。何者かの足音だ。近づくにつれ、大地の揺れは増幅されていく。立っているのもやっとで、彼は足を止めてその先に目を凝らした。それでも足音は近づいてくるようだった。

 暗闇と雪。一瞬、彼を取り巻く空間に静寂が割り込んだ。そして、一切の風音が消えた。臓物を圧迫されるような衝撃と、高く舞い上がる雪飛沫。

「危ないっ! ——光よ照らせ!」

 フィリアの声が背後からすると同時に、空に球体状の白色の光源が打ち上がった。

 叫び声が聞こえる。だが彼は呆然と立っていることしかできなかった。

 まず見えたのは三本爪の足だった。上に視線をずらすと、獣の毛並みが目に入った。ラクルンツェは思わず息を止め、さらに顔を上げた。

 そうして、その全貌が顕れる。

「ラパ……なのか」

 ラクルンツェは地面にへたりこんだ。ただ眼前の異様な光景が信じられなかった。雪に隠れるような白色の身体、獲物を見つめる狩人の瞳、鋭く凶暴な歯をのぞかせそれは悠然と立つ。見る者全てが神話の時代を想起せざるをえないほどに、ラパに酷似したその生物は、恐ろしく巨大であった。

「ラクルンツェ、耳塞いで!」

 フィリアの声を飲み込むのに数秒かかった。かろうじてあった判断能力が彼女の言葉に大人しく従うべきだと告げていた。耳を塞ぐ彼の様子を確認したフィリアは、懐から笛を取り出した。

 彼女の肺が空気で膨らむ。そうして溜め込んだものが笛へ一気に吐き出されると、金切り声のような音が雪原全体に広がった。

 巨大な獣が、フィリアの存在を認識し、彼女の身体が完全に収まるほどの瞳を器用に動かす。その動作はひどく緩慢で、小石ほどの人間など歯牙にも掛けない、王たる気高さを呈する。

 その巨木のごとく脚が持ち上げられると、遅れてラクルンツェの身体が余波で吹き飛ばされる。獣はラクルンツェを避けるように進路を変えた。ラクルンツェはフィリアの奇怪な仕業のおかげで踏み潰されずに済んだのだ。

 巨大な獣が遠ざかっていき、後に残されるのは抉れた地面の跡のみ。もしラクルンツェが平静であれば疑問に思っただろう。あの図体の大きさから考えて明らかに足跡が浅い。あれほどの巨躯を構成するような質量ならば、たちまち自重で潰れるだろう。

 雪に埋もれたラクルンツェは気づきようもない。フィリアに見つけてもらい引っ張り出された彼はすでに意識を失っていた。彼女は物言わぬ寝坊助に内心で勝手を咎めながらも、見捨てようとはしなかった。

「帰りましょう、ラクルンツェ……」

 獣が去った後、ふたたびその場所には雪が吹き荒れ、世界は凍てつく死の大地に身を沈めた。

 

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