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第一話 白銀の祝福

 太陽の光によって雪に覆われる大地が煌々と煌めく白銀の世界。

 遥か前方には巨人が横たわるがごとくそびえ立つ山脈、付近には葉緑の大樹が並ぶ森が見え、人の気配などは一切ない。今立っているこの広大な雪原にすら、足跡は見つからなかった。

 ラクルンツェは夢心地にあった。なぜこんなところにいるのか、彼自身の記憶を辿るかぎり、全く見当がつかない。鎧の下に身につけるような、身体の線を浮き彫りにする小汚い衣服だけが彼の唯一の持ち物だ。

 突き刺すような寒さ。肺から空気を吐き出せば、たちまち目の前は白く染まった。深く考えるより前に、この状況をどうにかしなければならないのは明白だった。曖昧な思考の中で、ラクルンツェは背後を振り返りもせず、ただ漠然と生存に対する執着に従って歩きだした。

 時折、鳥の群れが頭上を通り過ぎる。空はとても澄んでおり、彼らの鳴き声はよく響いた。雪を踏み潰すたびに、冷気に体温を奪われ、体力が消耗していく。周囲の音も、自分自身の荒い息遣いに掻き消されやがて聞こえなくなった。

 足を止める。そして靴に侵入してきた雪を振り払った。脱いでから気が付いたことだが、この靴は到底雪の上を歩くように作られてはいない。この調子で歩けばすぐに使い物にならなくなるだろう。

 ラクルンツェはそっと溜息をついた。そうして身体に満たされる冷たい空気は幾ばくかの実感を彼に与え、輪郭のぼやけた世界をその瞳に映し出した。

 ——ここはどこだ?

 喉が焼けるように熱い。なにか大事なことを思い出そうとして、ラクルンツェは瞳を閉じる。ここではないどこかの、遠い記憶。しかしいくら追い求めても真実には辿り着くことができない。掬い取った雪の塊が、手の上で解けて滴り落ちてしまうように、奥底に眠る記憶の残滓はひどく不確かだった。

 雪の上へ倒れ、熱のこもった頭を冷やす。ラクルンツェは自分が何者であるかという問いに答えられないという、およそありえるはずのない現実をようやく知った。絶望はない。なるべくしてなったような気がする、ラクルンツェは無感動に納得した。

 死から逃れるためには歩き続けるしかないのだとラクルンツェは思った。若く健康的な相貌には似つかわしくない落ち着きをもって、すでに消耗しきった肉体を叩き起こした。身体の先端から徐々に感覚が失われていた。兎にも角にも火が必要だ。森の中ならば、自力で火を起こせるかもしれない。遠くに見える木々の大きさからして、辿り着けない距離ではないと目算した。

 雪を踏み締め足が沈むと、瞬間、背後から獣の咆哮が彼の耳を貫いた。この感覚をラクルンツェは知っている。獲物を見つけたとき、飢えた野生が発する叫びだ。彼は森に向かって脇目もふらず走り出した。骨が軋み肉が捩れる。それでもなお、彼は自分自身の判断を疑いはしない。

 それに、背後から迫る気配の標的は確実に自分にあった。大地を震わす微かな振動。彼我を取り巻く別種の空気。足を止めるということは、生きることを諦めるということに他ならない。

 彼は走り続けた。獣の咆哮に追い立てられた二本角の体躯が彼を追い越すまで。

「なんなんだ……」

 その生き物はヴェラーチェカに酷似していた。膝をつき、後ろ姿を観察する。枝分かれしたツノが特徴的な茶色の毛並みだ。ヴェラーチェカという彼にとって耳馴染みのある名は脳裏にすぐさま浮かんだ。しかしながら、腑に落ちないような感覚もあった。あの生き物をヴェラーチェカと形容することに言葉にしがたい違和感をラクルンツェは覚えたのだ。

 息を整え、再び歩き出す。咆哮の主はそれ以上自らの存在を主張しなかった。慌ただしく飛び回る鳥をぼんやりと眺めていると、ラクルンツェは先ほどまでの自身の慌てようとその光景を重ねて滑稽に思った。

 それから一時間かけて森に辿り着いた。陽光は木の葉に遮られ、幾らか暗く湿った空気で満たされている。しきりに聞こえてくる鳥の鳴く声はそこに踏み入る人間を不安にさせる、人智を超えた神秘を内包していた。

 引き返すことも考えたが、靴はすでに使い物にならない為に道中で脱ぎ捨ててきたことから、これ以上の移動は避けたかった。足の指は変色を始め、壊死しかけていた。ラクルンツェは崖の麓に運良く洞窟を見つける。薄暗い空間の中で剥き出しになった岩肌の上にへたり込むと、疲れが彼を襲った。

 瞼は鉛のように重たく、睡魔に促されるまま彼は眠りについた。

 

 *

 これは夢だ、そう理解する。

 血の匂い、剣戟がなす甲高い金属音、痛みにのたうち回る人間の絶叫、そして殺戮に酔う男達の勝鬨。ハンヴァスの丘は死体で埋め尽くされ、彼の軍団は千年都の目前まで迫る。この騒乱で敵のことごとくを討ち滅ぼし帝国全土を平定することは、世界全てを手中に収めることに等しい。

 軍馬に跨り剣を空に掲げる少年は、かつて栄華を誇った都市を眼下に捉える。

 ——すべては己が理想の為に

 政敵を誅し、血を分つ兄弟すらも手にかけ、その先に目指す未来があると少年は信じていた。ノールの森を越え、軍団を解散させぬままコシュの川を渡ったときから決意は固まっている。

 これからより多くの血が流れるだろう。都へ進軍する頃には、各地の属州は反旗を翻し、正当な血統を主張する貴族は兵を挙げるに違いない。

 まだ殺さなければならないのか、と少年は思う。母が聞かせてくれた英雄譚ほどに、人も戦いも美しくはなかった。自らが歩んできた道程には、空高く積み上げられた死体と焼かれた村々がどこまでも続いている。

 まるで生き地獄のようだ。この地獄はいつまで続くのか、いや、きっと人が人であるかぎり、終わりはしないのだろう。人が生きる世界は、かくも悲しみに溢れている。少年はそっと目を閉じた。

「——終わらせてやるさ。この憎しみの連鎖を」

 死神の化身とされる黒鳥——レヴィア。

 戦場を我が物として死体の肉を啄む飛行動物の群れは、勝利を祝福するかのように喧々と鳴いていた。

 

 *

 

 目が覚めて、まず最初に感じたのは喉の渇きと空腹だ。まさか雪水を飲むわけにもいかない。しかし、水場を探さなければ夜は越えられないだろう。残った体力を考慮すれば最後の機会になるかもしれない。ラクルンツェは鉄臭い唾液を吐き捨て、洞窟から出た。

 ヴェラーチェカは北方の狩猟民が好き好んで狩る気性の大人しい草食獣だ。森林を生息域とし、体高は人間に及ばない程度。毛皮を剥いで加工を施せば防寒具として使える。一匹分の肉で当分は腹も持つはずだ。

 しかしながらラクルンツェは道具を持っていない。ベラーチェカは気配に敏感で近づけばまず逃げられる。弓である程度の距離を保ちながら狙いをつけなければならないが、一から弓を作り上げるというのも現実的ではない。狩のことはいったん頭の隅に置いておくことにした。

 それから火を起こすための焚き木や枯れ草を集めていると、ちょうど足跡を見つけた。形状や大きさからしてヴェラーチェカにものに間違いない。獣とて水は必要不可欠だ。この痕跡を辿っていくことで水場にありつけるかもしれないとラクルンツェは考えた。

 森は深く、進むにつれ人を寄せつけない自然の匂いが鼻をくすぐった。木々の樹皮を指で削り、目印をつける。陽の光は遮られ、体内に備わる方向感覚が当てにならないことは明らかだった。

 ぎゅ、ぎゅ、と一定の間隔で脚を持ち上げ、雪へ落とす。息遣いも同様にして律動的な呼吸がおこなわれる。異常のなかにあってこそ、平静を保ち最善の解を探り続けなければならないとは誰に教えられたことだったか。大袈裟な弓を抱えて雪山を駆け抜ける少年の姿がふと脳裏に浮かぶと、

「——っ」

 突然、足跡が途絶えた。

 ラクルンツェは息を潜めて獣の気配を探る。すると、すぐそばに血に染まる雪の表面が見えた。

「喰われたのか」

 膝をつき、状況を確認する。出血量は矢が突き刺さった程度のものではない。だとすれば、肉食の捕食者に追い回されていたという可能性が高い。見れば引きずられた痕跡がある。時間はそう経っていない。血の臭いを嗅ぎつけた獣が寄ってくる前に、彼は移動することにした。

 後戻りはできない。すでに限界が迫り、意識が朦朧としていた。ラクルンツェにできることはただ前に進むことだけだ。たとえその先に、凄惨な結末が待ち受けていようとも。

 そうしてどれほど歩いただろうか。

 小川の辺りに出た。透き通った水が川底を映し出す。ラクルンツェは水中に顔を突っ込み喉をごくごくと鳴らした。息が続かなくなるまでそうした。かろうじて命を繋いだ喜びを得て、彼は幸福だった。

 しかし、良い状況というのは長くは続かないものだ。獣の群れに追跡されていたことに彼が気づいたのは、それからしばらく経った頃だった。渇きを潤したことで思考は澄み渡り、周囲を取り巻く不自然な静寂をようやく疑問に思った。

「ラパの群れか——」

 雪を思わせる白い体躯が茂みを動いた。ヴェラーチェカを狩ったのも奴らかもしれない。ラクルンツェを着実に仕留められる機会を狙っているのだ。統率の取れた動きをするラパの群れは、森に住まうものにとって大きな脅威だ。賢いがゆえに、ラパは群れに犠牲を出すような行動は徹底して避ける。その性質が彼をここまで生かしていた。

 ——もっと深くまで誘き寄せるつもりだな

 水を飲むふりをしながら目だけで状況を探る。群れの動きからして数は一〇程度。過剰な攻撃性は見られない。さほど飢えてはいないようだ。ならば生き残る術はある、とラクルンツェは策を練り始めた。

 彼は立ち上がり、来た道を引き返すように歩き出した。あえて誘いに乗ってやる必要もない。

 ラパの群れは追跡の手を緩めない。他の群れの縄張りが近いのか、徐々に殺気だった雰囲気がラパの息遣いに現れる。微かな物音から距離を割り出し、全方位への絶え間ない警戒を行っていると、ついに一匹がラクルンツェに飛びかかる。

 彼は重心をずらして最小限の動作で回避する。相対するラパはふりかえり様に鋭い眼光で獲物を睨みつけ、唸った。短剣のひとつでもあれば今の間合いで殺せたのに、と彼は落胆しながらも隙のない構えをとる。

 再びラパは走り出し、彼の首筋に向かって飛んだ。その俊敏な動きは彼の目からすると一瞬で距離を詰めてきたように見えた。しかし、ラクルンツェは動じず、身体を横にずらした。またもラパの攻撃は空振りに終わる。

 ラパは脚で雪を蹴った。息は荒々しく、先程までの慎重さはない。群れの他の個体は木々の間に身を隠し、加勢する様子はないにしろ、じっとその戦いを眺めていた。おそらくラクルンツェを襲った個体は一際気性が荒いのだろう。その証左に、かの瞳には氷をも溶かすような怒りが宿っていた。

 腰を落とし、彼は眼前の敵にもてるすべての集中を向ける。この一瞬で決める、このときだけは互いの思考が一致した。最初に動いたのはラクルンツェだった。

「ぐっ……」

 彼が半歩進む間にラパは目前まで迫っていた。空中を飛翔する人の子供ほどの身体。その勢いは凄まじく、噛みつかれることになれば一溜りもないだろう鋭い歯をラクルンツェに突き立てる。

 空中では踏ん張りが効かない。なにせ地面がないのだ。重力や慣性に従ってラパの身体は単純な軌道を描く。それこそがラクルンツェの狙いだ。彼はラパの首根っこを掴み、突撃の勢いを殺さないよう身を翻す。ラパは拘束から抜け出そうと暴れ回るが、刹那、全身が砕け散るような衝撃が背を襲う。地面に叩きつけられたのだ。そうラパが理解する頃には勝負がついていた。

 ラクルンツェは痛みに喘ぎ弱々しく鳴くラパの首を腕で締め付ける。彼も戦いの熱に浮かされていた。襲いかかってきた強敵は今や己の懐でのたうちまわり、首の骨一本折れば殺すことができる。

 ラパの群れは仲間が危機にあって日和見をやめた。ラクルンツェを取り囲み、全方位から襲いかかるつもりだ。だがもし強硬策に打って出れば捕えられた仲間がどうなるかわからない。睨み合いが続いた。

「いいさ……僕が相手にしてやる——っ!」

 ラクルンツェが腹を決め、腕の中にいるラパを締め殺そうとした瞬間、森に耳をつんざく甲高い笛の音が響いた。彼が慌てて耳を押さえると、その隙にラパは逃げ出す。群れは傷を負ったラパを連れ去ってしまった。

 ——誰だ!

 興奮冷めぬ様子で笛の音がした方向に振り向き、

「まったく危なっかしいわね」

 ラクルンツェは目を疑った。そこには女が立っていた。夜闇を思わせる漆黒のドレス、腰まで伸びるレヴィアの髪、純白の脚衣に覆われた細やかな脚。女は魔性の笑みを浮かべ、彼を見定めるような視線を向ける。

 見たことがないほど美しい女だ、とラクルンツェは正直な感想を抱いた。だがそれゆえに自らが置かれた状況の奇怪さが浮かび上がる。この女の唇には明らかに口紅が塗られているし、香水なのか甘い匂いを漂わせている。純朴な村娘のような容姿であればまだ疑いはしなかった。この女が死神だといわれてもおかしくないとさえ思えた。

「君は誰だ」

「……そうね、フィリア、ただのフィリアよ」

「なぜ言いよどむ? 嘘をついているのか?」

「嘘なんかついてないわ。ただ、ここにいると名前を訊かれる機会なんてあまりないものだから」

 そう言ってフィリアと名乗る女は手を差し出した。

「これは……」

「握手しましょう。それで、お互い疑ってかかるのは、なし」

 悪意は見えない。敵対する意思はないのだと示したいのだろう。彼はおずおずとフィリアの求めに応じた。久方ぶりに感じる人の温もり。彼の冷え切った手がフィリアに触れると、安堵の感情が胸に広がった。けれどどこか冷たい、ラクルンツェはそうも思った。

「あなたは?」

「僕は……ラクルンツェだ。それ以上はわからない」

「そう、ラクルンツェね。さっきは危なかったわね。あの獣を殺していたら、お仲間に襲われて全身ばらばらにされてたわよ」

「笛を鳴らしたのは君か、助かったよ。本当は追い払うだけのつもりだったんだけど、途中で収拾がつかなくなってしまって。ラパの群れはやはり厄介だ」

 ラクルンツェは疲れ切った様子で木の根元に座り込んだ。

「ラパ? あなたを襲っていた獣のことかしら」

「ああ、そうだけれど」

「ラクルンツェ、あなたは運がいいのね」

「運がいい、か。それはどういう意味なんだい」

 だって、とフィリアはいったん口を閉ざした。

「生きていた頃の記憶が少しでも残ってるのって、けっこう珍しいのよ。大体のひとは何も思い出せないもの」

 感情の読めない微笑みに影が落ちる。

 それはラクルンツェのなかに彼女の言葉を受け入れる余地を与えた。

「なかなかに複雑そうな話だ」

「怒らないのね?」

「ひとはわかり合う生き物だと思っているから」

「おかしなひと……いつかその甘さで痛い目を見るわよ、いえ、それでこんなところまで来てしまったのかしら」

 フィリアはおかしそうに揶揄う。そうしているときの彼女は年頃の少女そのものだ。ラクルンツェも表情を崩して、

「そうかも……いまは神のみぞ知ることだけれど、たぶんそんな気がする。それと、少し眠いな。さすがに疲れた。本当にさっきは助かったよ、ありがとう……」

 そう言い残すと、彼は死んだように眠ってしまった。

 こりゃ本当に死んでそうね、というフィリアのつぶやきはついに誰の耳にも届かない。

 呆れていると、雪が降り始めた。

 大地を凍らせるどこまでも冷たい結晶が浮かぶように空から降りてくる。

 フィリアの翠玉の瞳は眠りこけた男の姿をじっと映し出していた。

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