善なる至純の王、その微笑み
日本史上、最初の絢爛たる時代。それは、6世紀末から7世紀にかけての飛鳥時代であろう。
後代の宮城(大内裏)の原形となる、小墾田宮の造営。
冠位十二階の制定。
憲法十七条の発布。
遣隋使の派遣。
『天皇記』『国記』など歴史書の編纂。
そして、仏教の布教と興隆、寺院の建設。
摂政の聖徳太子と大臣の蘇我馬子に支えられ、賢明なる女帝・推古天皇は数々の革新政策を成し遂げていった。日本はそれまでの豪族連合体制から中央集権の律令国家へと、確実な1歩を踏み出し、弛まぬ姿勢で進み続けたのである。
♢
推古天皇は、即位時には40歳。彼女の後継に有力なる皇族は、3人ほど存在した。
1人は推古天皇の子である、竹田皇子。
1人は敏達天皇の子である、押坂彦人皇子
1人は用明天皇の子である、厩戸皇子――後世『聖徳太子』との尊称で、その英邁さから信仰の対象にさえなった人物である。
敏達天皇・用明天皇・推古天皇は皆、第29代欽明天皇の子であった。当時はまだ直系相続の原則は確立して居らず、皇位は兄弟間で受け継がれる例が多かった。天皇に即位するには血統だけでなく、年齢や才能、実績が求められたのである。
竹田皇子・押坂彦人皇子・厩戸皇子の3人は、同世代。血筋の尊貴さに優劣は無かったものの、その中から特に厩戸皇子が選ばれて異例の皇太子、更には摂政に任じられたのは、彼の持つ並外れた才能、朝廷において圧倒的な実力を有する蘇我馬子との関係、加えて皇族間の勢力均衡が考えられたために違いない。
ともかく、推古天皇が万が一に改革の中道で崩ずることがあったとしても、次世代には優秀な若者が控えており、皇位の継承に不安は何も無い――そのように群臣も、当の女帝自身も思い、飛鳥の地で政は滞りなく行われていった。
けれど、推古天皇が長命し、70歳を超えて危篤状態に陥った際、既に厩戸・竹田・押坂彦人の3人の皇子は世には居なかった。皆、逝去していたのである。
ならば、次の皇位は誰に譲るべきか――推古天皇は悩んだ。良き相談相手であった蘇我馬子も2年前に天寿を全うし、今は居ない。
竹田皇子には、残念ながら子は出来なかった。
そのため、候補は2人。
押坂彦人皇子の子である、田村皇子。
厩戸皇子の子である、山背大兄王。
どちらも30代。年齢に不足は無い。
田村皇子は実務の手腕に長け、山背大兄王は厩戸皇子――聖徳太子の志を受け継ぐ者として人心を集めていた。
推古天皇は後継を定めず、息を引き取った。馬子の子であり、朝廷を主宰する大臣の地位に就いていた蘇我蝦夷は、群臣を招集した。慣例に従い、有力豪族の長による合議で、次期天皇を誰にするかを、決定しようとしたのである。
田村皇子か、山背大兄王か――評議においても群臣の意見は2つに割れたが、蝦夷は田村皇子を選んだ。
山背大兄王の母親は馬子の娘(刀自古郎女)であり、大兄王は蘇我の血を引いている。
しかし山背大兄王については、亡父である聖徳太子の幻影を彼に重ねて見る者が多すぎる。
聖徳太子は馬子との連携を重視しつつも、明らかに天皇中心の国家体制を目指していた。蘇我氏の権力削減を狙っていたのは、間違いない。
太子が造営し、本拠となした斑鳩宮。その地に今も一族とともに住み続ける、山背大兄王。彼は――彼の一族は、蘇我氏にとって危険な存在だ。
蝦夷は、そう考える。
聖徳太子の血筋を継ぐ者たちは山背大兄王を中心に結束を強め、『上宮王家』と呼ばれて特別視されている。〝神聖な一族〟といった雰囲気が漂っているのだ。
大兄王の妃は、舂米女王である。女王は聖徳太子の娘にして、山背大兄王の異母妹だ。大兄王と女王の間には、7人の子が生まれている。山背大兄王に、舂米女王以外の妻は居ない。まるで、上宮王家に聖徳太子と無関係な血は一滴たりとも入れたくはない――そう主張しているかのようだ。
そこに、蝦夷は言いようのない不気味さを感じてしまう。
比べて、田村皇子は明るく、堅実だ。皇子自身に蘇我の血は流れていないが、馬子の娘(法提郎女)を妻とし、男子(後の古人大兄皇子)が生まれている。皇位をこの子に継がせれば、蘇我氏の覇権は安泰であろう。
蘇我蝦夷の政治に関する能力は、馬子に遠く及ばない。けれども、絶大であった父親の権力を、そっくりそのまま引き継いでいる。
蝦夷の威に圧せられ、群臣の多数が『皇位は田村皇子へ』との意見に賛同し始める。が、その時、蝦夷の提案に真っ向から反論する者が現れた。境部摩理勢である。
摩理勢は馬子の弟であり、蝦夷の叔父に当たる人物だ。兄の馬子とともに推古天皇の臣として働くうちに、聖徳太子の理念に共鳴し信奉するようになる。太子が亡くなった後には、自ら進んで上宮王家の後ろ盾となった。
〝太子の理想を継承し、日の本をより一層、良き国へと導くことが出来るのは山背大兄王のみだ〟――境部摩理勢は、そう固く信じて疑わない。
蘇我氏内部の主導権争いも絡み、蝦夷と摩理勢は対立を深める。蝦夷は摩理勢を圧迫し、ついには武力を用いる様子さえ見せ始めた。
追い詰められた摩理勢は斑鳩宮へ逃げ込み、山背大兄王に救いを求めた。
助力を懇願する摩理勢へ、大兄王は慈愛に満ちた眼差しを向け、穏やかな声で述べた。
「摩理勢よ。汝が我が父――聖王の恩を忘れずに、我を皇位に推してくれたことは有り難く思う。しかし、我は天下が乱れるのを望まない。先王は臨終の折『誓って、もろもろの悪を行ってはならぬ。もろもろの善を行うように』と仰せられた。我は、この言を戒めとして生きている。故に、我は争わぬ。何事も辛抱し、恨みには思わない。我のことは気にするな。今からでも遅くは無い。大臣に従い、身を慎むように」
山背大兄王の言葉を受け、境部摩理勢は絶望した。私邸へ戻った摩理勢はやがて、蝦夷が差し向けた兵によって絞め殺された
田村皇子は即位し、第34代舒明天皇となった。
山背大兄王の側近である三輪文屋は、権力争奪に血眼になる蘇我氏の醜さに強い嫌悪感を覚える一方、大兄王の慈悲深さ、清らかさに改めて感じ入った。
(素晴らしき方だ。尊き心も、振る舞いも――まごうことなき上宮聖王の、お子であり、再来であらせられる。俗悪な争いなどせずとも、いずれ大兄王は天皇にお成りになる。このお方の至純さを汚そうとした摩理勢が惨めな最期を遂げたのも、当然の報いだ)
同族の血で手を汚し、悪に染まった蘇我一族など、遠からず滅んでいくに違いない――
♢
舒明天皇は西暦641年、在位13年にて崩じた。次の天皇は山背大兄王と誰もが予期していたが、大臣の地位に居つづけている蘇我蝦夷は、それを望まなかった。舒明天皇の皇后であった宝女王を、皇極天皇として即位させたのである。
女王は押坂彦人皇子の孫であるとはいえ、これはかなり強引なやり方であった。
――蝦夷は、それほどまでに山背大兄王を恐れているのであろうか?
第35代皇極天皇の治世において、蘇我氏、取り分け、その宗家の横暴はますます酷くなった。蝦夷の子である蘇我入鹿は政の力量抜群で、父以上に権勢を振るった。
蝦夷・入鹿の親子は天皇にしか許されぬ儀式を勝手に行い、あろうことか上宮王家の私民を己らが墓所造りに動員する所業さえ、事も無げになすまで増長する。
舂米女王は激怒し、蘇我を糾弾した。
「天に2つの日は無く、地に2人の王は無い。如何なる理由があって、上宮王家の民を使役するのか?」
その問いを蝦夷は無視し、入鹿はせせら笑った。
憤る舂米女王の隣に居ながら、山背大兄王は沈黙を貫いた。仏心をもって堪忍しているのか、蘇我の無法ぶりなど意に介していないのか――
いずれにせよ、山背大兄王の凜とした静寂さは彼の気品を際立たせ、人々の王へ寄せる期待は更に大きくなった。
蘇我の悪辣さが闇を深めるほどに、山背大兄王の善良さも光を増していく。
光と闇、明と暗、善と悪、上宮王家と蘇我氏――それぞれのあり方は、まさに対照的であった。
西暦643年。
蝦夷は独断で、大臣の位を子の入鹿へ譲った。天皇の大権を犯す行為に他ならない。
大臣となった入鹿は決意する。〝山背大兄王を抹殺しよう〟――と。
入鹿の目的は、古人大兄皇子を皇極天皇の皇太子に決定することである。古人大兄は、気弱な性格。彼を傀儡となし、思うがままに国政を執り仕切るのだ。そのためには、どうしても山背大兄王が邪魔だ。
斑鳩宮に居を構え続ける、山背大兄王。その人望は、なおも健在だ。いや、人々が蘇我への反感を募らせるにつれ、山背大兄王に政への参加を望む声は、以前にも増して高くなってきている。
加えて入鹿には気になることが、もう1つあった。
古人大兄皇子の異母弟、葛城皇子の存在である。18歳の若さながら既に天賦の才を発揮し、将来を嘱望されている。葛城皇子は、田村皇子(先代・舒明天皇)と宝女王(現・皇極天皇)の間に生まれた。血統においても、古人大兄皇子に勝っている。蘇我の血を引いてはいない、英才の若き皇子。彼が成長する前に、古人大兄皇子を天皇にしなければ――
蘇我入鹿は、待てなかった。
♢
その年の冬、入鹿は斑鳩宮へ軍勢を向かわせた。蘇我軍を率いるのは、巨勢徳太と土師娑婆の両人。
突然の襲撃を受け、けれど山背大兄王に仕える者たちは三輪文屋の指揮のもと、果敢に戦った。
(山背大兄王を――わが君を、お守りしなければ)
防戦に努める人数は、百を超えない。しかし彼らは皆、勇士であった。特に奴の三成は敵側より「一人当千」と恐れられるほどに奮戦する。文屋も弓を引いて力戦し、ついには土師娑婆を射殺した。
だが、結局のところは多勢に無勢。出来るのは、時間稼ぎのみ。
数多の損害を出した敵が退いた隙に、山背大兄王は妃や子弟を連れて斑鳩宮を脱出し、生駒山へと向かった。三輪文屋ら、側近も付き従う。
山は寒気が、一段と厳しい。
木々の枯れた枝越しに見える空は、限りなく青かった。
生駒山に留まること、数日。人々は飢え始める。乏しい食料を、文屋たち臣下は王の一族へ差し出した。
そして。
山中にて息を殺し、身を潜めていた者たちは、現実の残酷さを、より深く思い知らされることとなった。目にせざるを得なかったのは、凍えと飢渇を忘れるほどに衝撃的な光景――
(空に、煙が立ち上っている。斑鳩宮が燃えている)
山背大兄王の行方を見失った敵が、腹いせのためか、それとも王から帰る場所を奪う狙いか、斑鳩宮に火を放ったのだ。
文屋は咽び泣いた。
(燃える。無くなる。上宮聖王が築き上げられた、栄光の宮が)
斑鳩宮を炎が舐め尽くしている最中に。
生駒山にて。
戦いで傷を負った三成が、命を落とした。最期まで「王は、ご無事でありましょうか……」と山背大兄王の身を案じ続ける三成の手を、文屋は強く握りしめた。
「安心せよ。王は、聖なるお方。これしきの変事において落命されることなど、あり得ぬ」
文屋が見守る中、三成の息は静かに絶えた。
三成は賤しき奴であった。しかし、務めを見事に果たしてみせた。彼の献身に報いなくてはならない。それには、大兄王に生き延びてもらわなければ――
文屋は大地へ膝をつきながら、山背大兄王へ進言した。
「わが君。やつがれ、思いまするに〝深草の地〟へ赴くべきかと。あそこには、君の領土があります」
大兄王は、特に反応する様子を見せなかった。黙ったまま、ひたすら文屋へ透明な微笑を向けている。
「そこで態勢を整え直し、すぐさま東へ向かうのです。東国には蘇我の手は未だ及んでおらず、わが君、何より先代の上宮聖王を慕う民が大勢、居りまする。彼らの力を結集し、軍を起こして引き返して参りましょう」
文屋は声を励ます。
「そのようになされば、蘇我に勝利するのは間違いありません」
が、そう口にしながらも、文屋自身は己が言を信じてはいなかった。戦いでは、蘇我側に完全に先手を取られている。いずれ蘇我との衝突は免れ得ないと考えてはいたものの、まさかこれ程までに早く襲いかかってくるとは予想していなかったのだ。
(油断した――)
おそらく、ここからの巻き返しは不可能。聡明な大兄王も、その事実は理解しているに違いない。けれど、死んでいった三成たちのことを思えば、最後の最後まで、あがき続けなければならない。諦めないのは、上に立つ者の義務でもある。まして山背大兄王は、上宮王家の長。一族の女や幼少の者を救う機会を見付けだすためには、文屋の申し出を受け入れる他に取るべき方法は無いはず。
どちらにせよ、生駒山に隠れ潜んでいても事態は好転しない。だったら――
王は、落ち着き払った声で返答した。
「文屋よ。汝の言葉は、もっともである。そのようにしたら、我は必ず蘇我に勝てるであろう。しかし、我は十年間、人民を労役には決して使うまいと心に決めている。我の一身上の都合で、なにゆえに万民へ苦労を掛けることが出来ようか。また後の世、我のための戦いで、民が自らの父母を喪ったと嘆いて欲しくは無い。戦に勝つことのみが、正しき道では無い。我は己が身を敢えて捨てて、日の本の国を固めようと思う」
山背大兄王の情け深くも悲壮な言葉を聞き、一族の者も、臣下の者も、ことごとく俯く。激しく心を揺さぶられたらしい。感動のあまり、泣き出す者さえ居る。
だが、文屋は大兄王の澄んだ瞳を見返しつつ、違和感を覚えた。
(『そのようにしたら、我は必ず蘇我に勝てるであろう』――?)
あり得ない。
文屋の献策どおりに動いたとしても、勝てる可能性は極めて低い。その事は誰よりも、文屋自身が分かっている。王も、承知しているはず。にもかかわらず――
王の瞳。
澄んだ瞳。
その瞳の色は、あまりにも空虚で。
(王は――)
たとえ、勝てないとしても。
(王は、この期に及んで、何もなされないのか?)
山背大兄王は、人々の希望の光。
〝偉大なる導き手〟であると皆に信じられ――
(いや、待て。どうして、自分たちはこれまで王に期待し続けてきたのだ?)
それは、山背大兄王が上宮聖王――聖徳太子の後継者だから。
そして王は、人々を失望させることが無かった。
何故なら王は、今まで何一つ失敗を犯さなかったから。
…………。
文屋の全身に悪寒が走る。
三輪文屋は、気付いた。
気付いてしまった。
王は知っていたのだ。
分かっていたのだ。
人々から失望されないためには――
失敗しなければ良い。
失敗しないためには――
何もしなければ良い。
何事もなさず、ただ微笑み、善良なる言葉を吐き続けていれば、人々から寄せられる期待を裏切ることは無い。希望の光であり続けられる。
王は、そうして生きてきたのだ。
疲労も空腹も極限に達しているであろうに、文屋の眼前で、なおも温顔を崩さない山背大兄王。
(このお方は――)
いや、この人は。
この男は。
己が野望に身を焦がす蘇我入鹿は、確かに悪人であるには違いない。しかし、彼が目指すのは蘇我氏の繁栄。権力を握った後の、日の本の国づくりも視野に入れ、そのために懸命に戦っている。
対して、山背大兄王は。
何もしない。
何もせずに、父の聖徳太子より受け継いだ名声のみを守り続けている。皇位継承の争いで味方となってくれた境部摩理勢のことも、アッサリと見捨てた。
〝美しき己〟を保つためには、その果てに一族の全滅が待っていようと、何ら気にはしない。大兄王にとって、一族の生命も、未来も、さして重要では無いのだ。王にとって大事なことは、ただ1つ。
(ああ。真の悪とは――)
敵軍が退去したのを見計らい、山背大兄王たちは黒い瓦礫と化した斑鳩宮へ戻った。弱りきった身体を引きずるように、重い足取りで、焼け残っていた斑鳩寺(法隆寺)へと入る。
その報を耳にし、再び蘇我の軍が来襲する。斑鳩寺は多数の敵兵によって、十重二十重に包囲された。
逃げるすべなど、もはや、ありはしない。
人々は覚悟を決め――終焉の時が、来る。
寺の中では、自決が相次いだ。王の妃が、弟が、子たちが、あるいは自ら命を絶ち、あるいは親の手に掛かった。ここまで従ってきた数少ない側近たちも、死んでいく。
自らが招いたともいえる惨状を目の当たりにしつつ、大兄王は無言で微笑し続けている。
文屋は、戦慄した。
(地獄だ)
ついに生き残っている者は、王と文屋の2人のみになった。
文屋は王に命じられるままに寺の外へ出て、敵将である巨勢徳太に面会した。王の最期の言葉を彼へ告げる。
「王は、仰った。『我がもし軍を起こして入鹿を討伐したならば、勝つのは間違いない。しかし自らの利のために、我は人民を傷つけたくは無い。それは、父である聖王の教えにも反する。故に、我の身は入鹿に与えることにする』――と」
巨勢徳太をはじめ、全ての敵兵は、身を震わせ涙を流した。
「さすが、山背大兄王」
「なんと高潔な」
「これぞ、聖王のお子」
そんな賛辞が、文屋の耳へ届いてくる。
(真実は――)
今、山背大兄王は寺院内で自死しているであろう。あの澄み切った温かな微笑みを浮かべながら。
その死は立派で、美しく、尊くもあり――同時に卑劣で、無惨で、醜悪だ。
何が善で、何が悪か。
三輪文屋は小刀を抜き放ち、己が首筋にあてた。敵将の驚きに構わず、一気に刃を突き刺す。文屋の首から、鮮血が吹き出した。
「おお。大兄王の死に殉じるのか。かかる忠臣をお持ちとは、王の優れた人柄が――」
目の前が暗くなる。
巨勢徳太の語りを、文屋は終わりまで聞くことは出来なかった。
♢
山背大兄王の真の姿に疑問を持った者は、三輪文屋の他に、あと1人、居たかもしれない。権力闘争の域を超える惨劇を引き起こした、首謀者――そう目され、飛鳥の時代及び後世において〝悪逆非道〟との烙印を押された蘇我入鹿その人である。
正史『日本書紀』は記す。
「(山背大兄王、その一族とともに自決し時)、五色の幡、蓋、種々の伎楽、空に照り灼りて寺に臨み垂れり。衆人仰ぎ観て、称え嘆き、遂に入鹿に指し示す。其の幡、蓋など、変じて黒雲に為れり。是れに由りて、入鹿、得見ること能わず」
〝善が悪によって滅ぼされた〟――世人は皆、上宮王家の滅亡を嘆き悲しみ、口々に蘇我入鹿を非難した。
山背大兄王については、その比類なき崇高な死も含めて『やはり、聖徳太子のお子様よ。まさしく、理想と信仰の正しき継承者であられた』と褒め称える声が止むことは無く――けれど、太子の血脈は彼の代をもって全て絶えたのである。
了