7 最初の晩餐
「何度も言ってるでしょう! 背中は丸めないっ! お尻をつき出すなと言っているのですっ!」
――ぱしぃぃぃいぃぃ
「はうっ!」
シェリーさんが手に持った棒で私のお尻を叩くと何とも言えない小気味のいい音がしました。
音こそ大きいのですが、実は特別痛いということはありません。
恐らくこの道具は子供をしつけるために大きな音を出して怖がらせるためのものなのだと思います。
大きな声では言えませんがこのくらいの刺激であればなんだか癖になってしまいそうです。
「……何をしているのですか?」
私が何度目かわからないシェリーさんからお尻を棒で叩かれたとき、レイモンドさんがこの部屋のドアを開けて入ってきて何とも言えない表情をしてそう言ました。
「レイモンド様、エマ様の姿勢や立ち居振る舞いがあまりにもひどいので矯正をと思いまして」
「そうでしたか。しかし、もう夕食の時間ですよ。初日でもありますしあまり根を詰めると良くないでしょう」
おおっ! 救世主現るっ!
しかも、今なんとおっしゃいました?
夕食?
ご飯っ!
晩御飯ですねっ!
私は「ひゃっほ~い」とレイモンドさんの後をついて部屋を出て行きます。
「はぁ~、仕方ありませんね。でもいいですか? 所作は日頃からの慣れですから常日頃から意識を、ってああもうっ!」
へっ、へっ、人間の癖ってやつはなかなか直らないんでさぁ~。
私は背中を丸めて揉み手をしながらレイモンドさんの後をついて食堂へと向かいました。
「おー、すごいっ!」
さっきは何もなかった食堂のテーブルの上には私が見たこともない美味しそうなお料理の数々が用意されていました。
何十人も座ることができる大きなテーブルではありますが、見たところ席は4人分だけのようです。
当主のクライスさんにセレナ御嬢様に私。
あと1人は誰でしょうか?
いくら庶民の私でも執事のレイモンドさんやメイドのシェリーさんが仕える主と同じテーブルでご飯を食べないということは知っています。
ということはクライスさんの奥さんでしょうか?
そうこうしているうちにクライスさんとセレナ御嬢様が食堂に来られて私も席へと案内されました。
「あと1人、わたしの息子、セレナの一つ年上の兄であるフィリップがいるんだが、今日は遅くなるらしい。だから3人で先に始めよう」
テーブルの一番上座、いわゆるお誕生日席に座るクライスさんがそう宣言してこの家に来て初めての食事が始まりました。
テーブルの上に並べられていた数々の料理がサーブするメイドさんたちによって切り分けられ、取り分けられ、小皿に乗せられて私の前に給仕されました。
レイモンドさんがクライスさんのワイングラスに見るからに高そうな赤ワインを並々と注ぎます。
私とセレナ御嬢様の席に置かれていたフルートグラスにもメイドさんによって何かが注がれました。
淡い黄金色の液体です。
恐らく果実を絞ったジュースだろうと思います。
まだグラスに口を付けてもいないのに柑橘系の豊かな香りが私の鼻腔をくすぐりました。
間違いなく品質の高い高価な果物を絞った一級品でしょう。
場末の食堂とはいえ、そこは伊達に飲食店で働いていません。
「では、エマ嬢の歓迎の意と皆のこれからの幸せを祈って乾杯!」
「「乾杯」」
御嬢様がフルートグラスの細い部分を持って軽く掲げられたのを見て、それを真似して同じように軽く掲げました。
食堂では、むさくるしいおっさんどもがジョッキをガチンガチンとぶつけ合って「がっはっは」と肩を組んで酒を飲んでいるのですが同じ食事でも身分や立場が違うとこうも違うものなのだろうかとびっくりしてしまいます。
私は小皿に載せられているお肉をフォークで刺して口に入れました。
肉はどうやら子牛のようです。
口に入れるとじっくりとローストされた肉の芳香が口いっぱいに広がります。
それだけでなくお肉に掛けられたソースがまた絶品!
あの一見がさつそうなロイスさんが作ったとはとても思えない繊細な味でした。
むむむ、この味をいつかうちの食堂で再現してやるぜ、とついどんなレシピなのかとあれこれ考えてしまいます。
そんな私はふと正面からの視線を感じました。
私の向いにはセレナ御嬢様が座っていらっしゃいます。
「御嬢様、どうかされました?」
「いえ、エマ様は美味しそうに食べられるな、と思いまして」
そりゃあ、庶民は毎日のオマンマを食べることが一番ですからね。
続いて私はスープに手を伸ばしました。
何とも言えない生臭い香りがします。
私の記憶が確かであればこれは海と呼ばれるところで獲れた魚介を使っているはずです。
あまり食べ慣れないものではありましたが何でもおいしくいただけるのが私の自慢だったりします。
――それにしても
私の向いに座っているセレナ御嬢様をチラリと見ますと、なるほど、料理を食べるその所作といいますかその動き。
洗練されていて確かに美しいと私でも思いました。
この御嬢様の身代わりをするんだよな~。
さっきまでシェリーさんにさんざんしごかれましたがなるほど、私が身代わりをする御方は何ともハードルが高い御方なのだとシミジミ感じました。
食事の途中、セレナ御嬢様がお花摘みのため席を立たれた直後、食堂の外がにわかに騒がしくなりました。
どなたかがいらっしゃったようです。
しかし、周りのメイドさんたちが慌てる様子はなく、当主であるクライスさんにお伝えする様子もありません。
ということは来客というよりも身内の誰かが戻ってきたということなのでしょう。
「父上、遅くなりました」
食堂に入ってこられたのは当主であるクライス様と同じ赤茶色をした髪の若い男の人でした。
年齢は私と同じか少し年上といった感じです。
(ああ、この人がセレナ様のお兄様か)
言葉に加えて風体もご当主様を若くしたような方でしたので直ぐに分かりました。
食事中にしたクライスさんとの会話でこのセレナ様の一つ年上のお兄様は今日は他のお貴族様の子弟の御友人とのお付き合いがあるとかでお帰りが遅くなったということでした。
ここは食事中ですが席を立ってご挨拶した方がいいのでしょうか?
私がどう対応するべきか躊躇しているとお兄様が空いた席に向かって近づいて来られます。
「おや、お客様は席を外しているのか。ただいまセレナ、今日もセレナはかわいいね」
お兄様はセレナ様の席のお隣のご自身の席に腰を下ろされ向かいの私にそう声を掛けられました。
さて困りました。
こんなときにホンモノのセレナ様であれば何とお答えになるのでしょうか?
選択肢1
『あらやだお兄様ったら。そんなお兄様もカッコいいですわよ』
選択肢2
『ありがとうございます。ところで今日はどなたとご一緒だったのですか』
選択肢3
『はあっ? 実の兄にそんなこと言われてもキモいんですけど? っていうか早く飯食えば?』
うん、選択肢3は絶対なしだ。
これは選択肢2と見た!
「ありがとうございます。ところで今日はどなたとご一緒だったのですか」
「うん、今日はね、フランネル侯爵家のアウロ様や他の……」
話を聞くとぶっちゃけ友達と遊びに行っただけなんでしょうけどこれもお貴族様の社交というか人脈作り、関係強化ということなのでしょう。
「ところでセレナ。今日は顔色が良さそうだね。飲み始めた薬が効き始めたのかな?」
ふふふ、実のお兄様にもバレないなんてこれはもうわたくし、完璧ではなくって?
私は気を良くして食事を続けます。
そのとき、つい気を抜いてカチャカチャと大きな食器の音を立ててしまいました。
「セレナ、やっぱり体調が悪いのかい? だったら部屋で食事をとった方がいいのかもしれないね。テーブルマナーが乱れているよ」
ガーン!
くっそう、ボロを出してしまったぜ。
ふとシェリーさんにチラリと目を向けると思わず『ひょえ~』と声に出したい気分になるような鋭い眼光が私をロックオンしていました。
これは明日も特訓ですね、わかります。
しかし、所作の乱れを体調のせいにする。
これは使えますな!
ナイスアシストですお兄様。
私の本当のお兄様ではありませんけど。
「ところで件のお嬢さんはまだ戻って来ないのかな? 父上が驚くように言うからどれほどのものなのか楽しみにしていたんだ。まあ、僕が愛する妹と見分けがつかないだなんてことは絶対にないと断言できるからね」
そのとき、食堂にセレナ様が戻ってこられました。
入り口がセレナ様やお兄様の席からは死角になっているためお兄様はお気付きになっていないご様子です。
そんなセレナ様は足音を立てずにスススとお兄様の傍に近づかれました。
「あら、もうお兄様の目の前にいらっしゃるではありませんか。相変わらずお兄様の目は節穴でいらっしゃるのね?」
お兄様の後ろに立たれたセレナ様がニコニコ笑顔で抑揚の一切ない平坦な声でおっしゃいました。
あっ、なんだか私の背筋まで寒くなってしまいましたわ。
その声をお聞きになったお兄様はギギギと音がしそうなゆっくりとした動作で後ろを振り返られました。
「…………」
「…………」
「(にっこり)」
「…………」
感動の兄妹のご対面を邪魔してはいけないと私はテーブルの上に並べられた料理に集中することにします。
ほほー、このグラッセ、野菜の旨味が凝縮されていて大変美味ですね。
私がお皿の上の料理を概ね片付け終わった頃、兄妹でのやり取りが終わられたのでしょう。
さっきよりややお顔の色がすぐれないお兄様から声を掛けられました。
「初めましてエマ嬢、セレナの兄、ルサリア伯爵家嫡男のフィリップだ。お見苦しいところをお見せした」
「こちらこそ初めまして、エマと申します」
私は立ち上がってお兄様に向かって一礼しました。
「それにしてもよく似ている。正直、ぱっと見て僕にもわからなかったよ。これはセレナのために神が遣わされたに違いないね。常人では見分けることは不可能だよ」
なるほど、相手が悪かったというように話を切り替えて自分に責はないとおっしゃるわけですね。
その責任の躱し方、さすがはお貴族様です。勉強になります。
「もうっ、お兄様ったらあれだけ豪語しておいてすんなり騙されるんですから。ホントにお気楽なのですねっ!」
セレナ様が口を尖らせて隣のお兄様にジト目を向けている。
明らかにご機嫌斜めだ。
う~ん、やっぱり妹としてはお兄様にはそこは見分けて欲しかったんだろうな~。
私は一人っ子で兄弟はいないからそこのところはよくはわからないけど口ではアレコレ言いながらもセレナ様はそれだけお兄様のことが好きなのだろう。
「フィリップ、学院ではお前がエマ嬢をしっかりフォローするのだぞ」
クライスさんが食事の終わりにそうおっしゃいました。
おやおや、お兄様にご面倒をお掛けするようなことはないと思いますが?
「今日のテーブルマナーを拝見してわたしも冷や冷や致しました。学院が始まるまでに何とか最低限度のマナーは身に付けていただきたいものです」
クライスさんの傍に控えていたレイモンドさんが嘆息しながらそう言われました。
チラリとシェリーさんの顔を盗み見ますとなにやらやる気満々なオーラを漏らしていらっしゃいます。
私は高い天井を見上げて呟きました。
「私、生きてこの御屋敷から出られるのでしょうか……」
大変美味しい晩御飯をいただいてお腹いっぱいですが、それ以上の心配で私の胸もいっぱいでした。