6 授業
「もっとお腹を引っ込めて背筋は伸ばすっ! 頭を動かさないっ、視線は前です!」
さっき元の庶民生活に戻りたくないと言ったが、アレは嘘だ。
物語のお貴族様の婚約ではないけれども先ほどの私の前言は撤回破棄する!
いや、やっぱり庶民は庶民として暮らすのが一番幸せなんだと思うな~。
すみません、そろそろ夕方なので今日はもう帰っていいですか?
レイモンドさんによるお貴族様のお宅見学ツアーの途中、準備ができたと言って私を迎えに来たメイドのシェリーさんに拉致されました。
手を引かれて真っ赤な絨毯の敷かれた廊下をズンズンと歩いていって2階にある空き部屋へと連れてこられました。
「今後、この部屋で貴女の授業をします」
部屋の中を見渡せば壁一面に大きな鏡が張られています。
映りのいい立派な鏡でかなり高価な物であることが直ぐにわかりました。
これだけで相当な費用がかかっていることでしょう。
「それでここでいったい何を?」
「学院が始まるまでのあと2日で貴族の御令嬢として恥ずかしくない最低限度の所作を身に付けていただきます。ああ、所作とは立ち居振る舞い、身のこなしですね。ちょっと貴女の所作は見ていられませんでしたので」
くっ、さっきロイスさんに笑われてできたばかりの傷が疼くぜ!
「その表情、あなたも自分で自覚があるようですね」
「いえ、まあ、そうはいいましても。自分で自分を客観的に見ることはできないといいますか……」
「御嬢様とお会いして御嬢様の所作を見られて自分とは違うとは思いませんでした?」
「いえ、特にはなにも……」
シェリーさんはこれみよがしに「はぁ~~~」と大きなため息をつきました。
「いいでしょう。この部屋にはそのためにこの大きな鏡を設置しているのです。貴女にはその目で現実をしっかりと見てもらいましょう」
「現実、ですか?」
私は首を傾げながらそう答えました。
「まずは鏡の前で普通に立って下さい」
「はい」
鏡の中には一人の美少女とその後ろのメイド服に身を包んだシェリーさんの姿。
おお、こんないい鏡で全身を見るのは初めてだけど私ってやっぱりいい女だな~、ムフフ。
「それで何か気付いたことはありませんか?」
「気付いたこと?」
う~ん、そう言われてもな~。
私はさっき会ったばかりのセレナ御嬢様の姿を思い出してみます。
「覇気がないというか疲れている感じがします。何か一仕事終えて『あ~、終わった~』みたいな」
「その表現はどうかと思いますが、概ねわたしが言いたいことには気付いていますね。それは姿勢が悪いのです」
「ああ、なるほど」
生まれも育ちも庶民で周囲は下町のおっちゃん、おばちゃんばかりでした。
そんな姿勢をどうこうだなんて言われたこともないし考えたこともありません。
「貴族ではその立ち姿、動作、身のこなし。所作のすべてに優雅さを求められます。逆にそれができないと馬鹿にされますし、これまでの御嬢様を知っている方が貴女を見れば違和感しか覚えないでしょう」
「……それは困りますね」
生まれながらに貴族の御令嬢であるセレナ様は息を吸うように正しい所作をするよう教育を受けてこられたのでしょう。
御嬢様の身代わりが仕事なのに御嬢様ではないとバレてしまっては話になりません。
単に私が御嬢様にあまり似ていないからバレたのであれば諦めもつきますが姿形は似ているのにその所作が原因となっては正直私の立つ瀬がありません。
「学院が始まるまであと2日しかありません。あなたにはそれまでの間、最低限、御嬢様ではないことがバレないようにしっかりと教育をさせていただきます」
そんなこんなで始まったのが貴族の子女としての所作、その基本のキとして常日頃の姿勢と歩き方のレクチャーです。
生まれてこの方15年。
私は私で特に意識することなく立って歩いて普通に生活をしてきたわけでして、すっかりとその動きに身体が慣れきってしまっています。
その当たり前を変えることがそこまで大変だとはこのとき露程も思っていませんでした。
そして、話は冒頭に戻ります。
そんなに違いなんてあるのだろうかと思ったのですが貴族ヤバい。
シェリーさんの言う通りにしようとするのですが、一つの指示を遂行すると他に言われたことが疎かになるということの繰り返し。
「背中が丸まっています! 身体を上から糸で吊るされているように。違いますっ! もっとお腹に力をいれてっ!」
シェリーさんにお腹と背中とを手で押さえられて正しい姿勢に矯正されます。
「うっ、腹筋が……」
これまで使われてこなかった私のだらしのない腹筋が悲鳴を上げています。
プルプルと小刻みに震えて、あっヤバ、なんか攣りそう。
これはマズイとちょっと身体を反ってみます。
「こらっ、身体は反らさないっ!」
間髪入れずにシェリーさんのダメ出しが入ります。
ううっ、ちょっとくらいいいじゃない!
「えー、踏ん反り返って歩くのがお貴族様ではないんですか?」
「ほう、まだ減らず口を叩くだけの余裕はあるようですね……」
思わず口から愚痴が零れてしまいました。
あっ、ヤバ、シェリーさんのメガネがキラっと光った気がします。
「いいでしょう、では少し休憩にします。その間に用意するものがありますから少し待っていて下さい」
そう言ってシェリーさんはこの部屋から出ていってしまいました。
(暇だ……)
鏡しかないこの部屋には他に何もありません。
私はこの部屋でぼ~っとして時間を潰し待つこと10分。
「お待たせしました。おや、エマさん」
「はい?」
シェリーさんは部屋に入ってくるやその目を険しくしました。
「エマさん、いま貴女がしているその癖は直した方がいいですよ。といいますか御嬢様の身代わりをされている間は控えて下さい」
「えっ?」
私は自分では気付かないうちに私の長い髪の毛の先に指を掛けてくるくる巻き付けて弄っていたことに気付きました。
私はどうも落ち着かないときには無意識にそうしてしまう癖があるようなのです。
鏡に映る私のその姿はたしかにみっともないものでした。
「まあいいでしょう、それよりも続きです。倉庫の奥の方にありましたのでちょっと探すのに時間が掛かってしまいまして」
シェリーさんが手に持っていたのは木でできた棒のようなもの、そして、ムチ!?
「あー、心配しなくてもいいですよ。ちょっと大きな音が出ますけどそこまで痛くないらしいですし、身体に傷が付くようなものではありませんから。御嬢様の身代わりとして学院に通っていただく貴女の身体に傷なんてつけられませんので」
「えー、だったらそれは使わないで……」
――ヒュんっっ、パシぃぃぃ
ひぃぃぃ~~~~~。
私の身体の傍をしなるムチが瞬きする間もなく風切り音だけを残して通り過ぎました。
次の瞬間、ムチの先は床に叩きつけられて小気味のいい音が部屋中に響きます。
「返事は『はい』以外に認めません。いいですね?」
「はい、喜んでっ!」
拝啓お母さま
圧倒的な暴力の前では私のようなか弱い乙女はなすすべもありません。
どうか天国から見守っていて下さい……。