幕間 七瀬愛理
side 七瀬愛理
何不自由なく暮らしていた私の平和な日常は、半年前に一瞬で崩れ去った。
学校の帰りに歩道を歩いていたところまでは覚えている、何か衝撃を受けたような気はするがそこからの記憶はなくて、気がついたら病院のベッドの上だった。
交通事故だった。
両親に聞いた話によると、酔っ払い運転のトラックが後ろから私に突っ込んできたらしい。
初めはトラックの運転手に怒りが湧いた。
撥ねられた私はすぐに救急車で運ばれて手術を受けて助かった。
と言っても、たまたま持っていたバックが頭の後ろに来たみたいでそれがクッションの代わりになり命に別状はなかったらしい。
ただ、両足が複雑骨折で骨も飛び出ていて、腰も強く打って骨折が何か所もみられたそうだ。
たぶん両親は事前にこのことをお医者様から聞いていたのだろう。
――歩けるようになるかはわからない、と。
回復していくにつれ両足に違和感が出てくる。足の感覚が鈍いのだ。
退院した私は車椅子の生活を余儀なくされた。当時の私は絶望と不安でいっぱいだった。
少ししかない足の感覚、どうせ動かないならこんな余計なものは切ってしまったほうがいいとさえ思っていた。
相当、病んでいたんだと自分でもわかる。
そして、最も苦痛だったのは学校だった。
登校数日はまだよかった。
車椅子の生徒はこの学校にはいなかったし、交通事故と伝わってたみたいで私にどう接したらいいのかわからないみたいで仲のいい友達以外はそれほど寄ってこなかった。
状況が一変したのは一カ月ほどたったころだろうか。
何故かクラス中の人達が、やってほしいことはないかと聞いてきたのだ。
初めはとてもありがたいことだと思った。ただ、足が不自由なだけで学校生活で困ることなど何もなかったのでその言葉に感謝しつつも断っていた。
それから私の周りには常に誰かがいるようになった。
私が移動しようとすると誰かが教室の扉を開けてくれる。
トイレに行こうとすると必ず数人の女子がついてくるようになった。
仲のいい友達とよく一緒に行ってたことはあるが、担当でもいるかの如く日によって誰かしらがついてきて何かを手伝おうとする。
学校の行事である文化祭、体育祭の準備も何もさせてもらえなかった。
私が手伝おうとすると大丈夫だからと、笑顔で私から物を奪って去っていく。
仲の良かった子が言いづらそうにこっそり教えてくれたが、みんなで話し合いがあったらしい。私抜きで。
――理不尽な事故に巻き込まれた私のために、クラス一丸となって手助けしよう。メンバーを固定すると大変な人が出るから、日替わりで私の世話を担当しよう、と――
屈辱だった。
私の世話が大変?
日替わりで担当?
そんなの誰も頼んでいない。私は足が不自由なだけで、それ以外のことはみんなと同じようにできる。
誰も悪意なんてものは持っていないだろう。親切心。ほぼ全ての人が善意のみで行っている。
そしてクラス一の発言力を持つ男子の優希くんはあるときこう、私に言った。
『大丈夫。心配しなくてもクラスでは不自由させないよ。俺が必ず守るし、助けてあげるから』
はにかむような笑顔で、ちょっと顔を赤くして。
クラスの女子たちはそれを聞いて歓声を上げた。黄色い声で。
もしかしたら、怪我をする前なら私も黄色い歓声を上げて、顔を赤くして喜んでしまったのではないだろうか。
それほど、彼の言葉は本気で私を思って言っていることがわかったから。
――吐き気がした。
たぶん今までで一番だと思えるぐらいのスピードで車椅子を使ってトイレに行って吐いた。
今日の私担当の女子は彼の発言に夢中になってついてこれなかったのが幸いした。
守ってくれる?
守ってくれていたならこんな事故にあっていない。
助けてくれる?
今も精神が壊れそうなほど困っている。
――守ってほしい時にはあなたはいなかった。
――助けてほしい時にあなたはこっちがわじゃない。
誰かが何かしてくれるたびに私の精神が削られていく。
善意の押し付けが、これほど厄介だとは思わなかった。みんな悪気がないから良かれと思って行動する。
相手に、ただただストレスと屈辱を与えて。お前は何もできないんだから、と突きつけられているようで。
私の精神がどんどん崩れて、頭に十円禿げができて、将来のことや親を心配させないように何とか隠して学校に行っていたある時、男子が無中になって話している会話をぼーっと聞いていた。
〝異世界転生〟
現実世界で何かしらの理由で死んだ高校生やおじさんが異世界に転生や転移をして、神様から貰ったチートでハーレム作って無双するという意味のわからないものだった。
昔の自分なら、アニメや漫画の話として聞き流していただろう。
ただ何故か、チートという言葉だけが耳に残った。
クラスであまり関わりがない、いつも小説を読んでる子が私担当になった日に、トイレに行ったときになんとなく聞いてみた。
その子も異世界転生ものが好きらしく、アニメじゃなくてライトノベルの話なんじゃないかと教えてくれた。
ライトノベルというのは十代が楽しめる小説で、主にファンタジー小説で使われている用語がチートらしい。
少し興味を持った私は、学校が終わってから書店に向かいおすすめされていたライトノベルを買った。
それは意味不明なものだった。
脈略もなく主人公が死んで、何故かチートと言われている何かしらの異常な力をもらい、世界観無視した力を使ってみんなを幸せにする。
みんなというのは、主人公に助けられた女性が主だ。
だがその中で、ひとつだけ強烈に憧れるものがあった。たぶん当時の私はちょっと狂っていたんだと思う。
四肢の欠損した女性獣人奴隷を一瞬で再生させる魔法、致命傷を負った女性を一瞬で回復させる薬。
そんなものあるわけないとわかっているのに。
――私のところにも主人公が来てほしい――
そう願わずにはいられなかった。
それから私は、たまにライトノベルを読むようになった。
そして世界崩壊の三月一日。
大地震と共に家に一人取り残された私は、震えているしかなかった。
数日して五階に住んでいるみなさんがきて、脱出計画が練られていることがわかったが、私は逃げられるのだろうかと何も言わずに聞いているだけだった。
その人達は口々に言った。
『大丈夫よ。一緒に逃げましょう』
『俺が背負っていく、力だけはあるんだ』
『準備だけしておいて、すぐに呼びにいくから』
それから誰も私のところにくることはなかった。
彼らは私を見捨てて、マンションから逃げて……ゾンビに襲われたのだから。
私はその光景を部屋の窓から見ていた。
正直、恐怖はあったが諦めていたんだと思う。
嫌悪感を抱くほど過剰に関わってきたクラスのみんな。
助けるからと言ってくれた、優希くん。
助けると言ってくれた近所の男性。
――嘘つき。誰も私を助けてくれないじゃない。
ゾンビが徘徊しているのだから助けに来れなくってもしょうがない。それはわかっている。
学校のみんなだって、悪意がなかったこともわかっている。
みんなただの私の八つ当たり。誰も悪くない。
それでも誰かに助けて欲しかった。
食料が尽き数日。
水はあるけどもうすぐ自分は死ぬんだと理解していた時に玄関のドアが叩かれた。
生きることは諦めていた。誰も来ないことで、足手まといな私は見捨てられたとちゃんと理解している。
だが、外から声が聞こえた瞬間に、諦めていたはずなのに、一筋の希望が見えた瞬間に、その細い糸に
――すがりついてしまった
「助けてくださいっ!」
必死になって縋りつく私は、自分でも滑稽だったと思う。
彼は〝助ける〟と言ってくれた。その言葉で冷静になることができた。
彼はスーツに、何故か剣を持っていて一瞬強盗かと思ったが、今更どうでもよかった。
そして彼が出してくれたお菓子に私は夢中になった。久しぶりの甘み。
だが、そこから完全に私は彼がよからぬことを考えている不審者だと確信した。
ラベルのない瓶を出されて中の液体を飲めと言う。ラベルの貼ってない商品なんて日本じゃ売ってない。
私が渋っていると、彼はワタワタと挙動不審な態度で、この世はファンタジーとか言い出した。
私の中で細い希望が消えかかっているのがわかる。この人は、ゾンビの影響で頭がおかしくなりかけてる不審者だと。
食べ物をわけてもらった恩があるのでどうやって出来る限り穏便に出て行ってもらおうかと考えていたが、彼の方から物資を取りに行くと言って慌てて出て行った。
これ幸いと彼が玄関を出た瞬間に鍵を掛ける。
ため息と共に彼がまた来たら居留守でいいかと思いながら、覚悟を決める。
なんとはなしにカーテンの隙間から外を見ていると彼が出てきたのが見える。
「……あっ、危ない……」
彼がゾンビと鉢合わせになりそうなのを見て、なんの感情もなく呟く。
その時だった。
彼が消えるように移動して私は見失った。次に見た時はゾンビの後ろを歩いていて、ゾンビが倒れる。
「えっ……」
見間違いかと思って目を擦ると彼はそのまま歩いて部屋から見えなくなる。
私は慌てて家を飛び出すと廊下の端にある小さい窓に顔を近づける。
ここなら彼がまだ見えるはず。
何を必死になっているのか?そう思う自分がいる。
だがそこに彼はもういなかった。代わりにいたのは倒れている数体のゾンビ。
意味がわからなかった。
そうだ。私は今まで大事なことを忘れていた。
彼はどうやってゾンビが徘徊する外を歩いてここまで来たのか?
どうしてあんな簡単にゾンビを倒せるのか?
――異世界チート主人公――
その言葉が頭の中でぐるぐる回る。
ありえない、あれは作り話、現実には存在しない。
でもゾンビは存在する。
急いで家に戻ると、彼の置いて行った茶色の瓶がテーブルの上に置いてある。ラベルのない、ロゴもない、ただただ怪しい茶色の瓶。
『ファンタジーだから』
彼の言葉が蘇ってくる。
私は、意を決して、普段だったら絶対に飲まないだろう怪しい液体を――飲み干した。
飲み干した瞬間に身体に変化が訪れる。
乾燥した土に水をやるように、身体が謎の液体を吸収しているのがわかる。
そして、下半身。
腰と足がむず痒くなるように刺激される。違法薬物……そんな単語が思い浮かぶ。
数秒するとむず痒さが消える。
確かに身体の疲れや怠さがなくなった。ただ違法薬物で感覚を誤魔化しているだけかもしれないとも思う。
車椅子を動かして寝室に行こうとすると違和感がある。
足に、刺激がある。
まさかと思い、壁に手をついてゆっくりと立ち上がる。
立ち上がろうとした時点で既にわかっていた。
足が動くことに。
私はそこで泣き崩れ、本当に彼が〝助けてくれた〟ことに深く感謝する。
「彼は……私の異世界チート主人公だ」