第09話 「キラキラネーム」
親父が死んだので、お袋の世話をするため田舎に帰ってきた。
そのお袋も昨年死んだ。なので、命日は月に二日。
件の尼僧はその日にやってくる。
これは、俺が、その尼僧の読経後の話を書きおこして、採点したものである。
彼女が曰く、
『坊さんは職業柄、なにかと相談を受けることが多いのですが、たまにある内容として、名付けの相談があります。坊さんはお経典に親しんでいるので漢字にくわしい。漢字の意味はどうか、悪い意味はないか、ということです。
先日、先輩が「お前もこういうことあるだろ」ということで、名付けの相談の愚痴を聞いてきました。
先輩の話は、最近になってよく見られることで、
「息子夫婦が生まれてくる赤ちゃんにつけるべく考えている名前が、親である私にはとても考えられないもので、とても困っている」と。
つまりは、いわゆるキラキラネームをつきつけられて、どうにも賛同できない。なんとかして常識的な名前になるよう説得できないものか。こんな相談を受けたそうです。
説明するまでもないかもしれませんが、最近の若いかたが名前に用いる漢字は、音写だの当て字だので読めない。いままで用いなかった漢字を使いたがる。意味が通らないことも珍しくない。一般的ではないと。称してキラキラネームというそうです。
その相談されたかたは、とにかく「読めない」「意味がわからない」「ふつうはこんな漢字は使わない」「いままではこんな名前はなかった」「もっとふつうの名前にしたらどうか」と、こういった言葉が堂々巡りになって話が終わらない。
先輩は、しばらく黙って話を聞いていて、なんとかそのかたの気もちを和らげてあげられたら、と思っていたそうですが、その相談されたかたが、
「仏教の考えかたをもって、なんとか息子の考えをあらためられないでしょうか。
破邪顕正というでしょう」
と、仏教語が出てきたがまずかった。先輩は真面目で率直な人ですから。この言葉に怒ってしまった。
「自分の意見を通すために仏の教えを都合よく利用しようだなんて、とんでもない」
破邪顕正とは、「まちがった邪な考えを破り、正しい考えを顕すこと」です。そもそも、なにをもって正邪を判断しているのか。ということもあります。
先輩は、
「いいですか。
仏の教えというならば、仏の教えの基本的なことで、諸行無常というものがあります。
物事のすべては、時とともに変わっていくということです。
物事のすべてすから、私たちがもつ名前、名づけの常識もそうです。
私たちの時代、昭和なら昭和の名づけの常識があり、平成には平成の常識がある。そして、令和時代には令和時代の常識があります。名づけの常識が変わっていくのに、いつまでも昭和の常識をあてはめて、あれはちがう、これはちがうと否定ばかりでは、不平不満の苦しみからは逃れられない。
私たちは昭和の生まれです。お孫さんは令和の生まれでしょう。
お言葉ですが、お孫さんが十代後半だの二十代だのになって、自分の名前をしかと認識して、それからを生き抜いていこうというとき、私たちはもう人生を終わろうとしている。彼らにとっての昭和は、私たちでの江戸時代のようなものですよ。
「これから」はじまっていく人に、「これまで」の常識を押しつけるのはどうでしょうか。正しいことだと言えますか」
先輩は、
「最低だ、自分よりも三十も年上のかたに説教してしまった」
と、渋い顔で後悔されてましたが、その相談されたかたは、一応は納得して帰られたそうです。
私は、その相談されたかたの気もちと先輩の考えかた、どちらも理解できて、物事のむずかしさを感じましたが、この話においては、物事は時とともに変化していく。それは私たちの外見も考えかたもそうだし、物事のありかた、常識として不変だと思っていたこともふくまれる。
物体も、物事も、概念も、思想も、すべて変わっていくのに、過去のものを持ちだして「これが不変だ!」としてしまうと、苦しみを生んでしまう。それはよくないんだと。
この仏教の根本的なところをお伝えして、お話といたします』
これはむずかしい。キラキラネームにまつわる賛否両論はお坊さんが絡まずとも巷でもよくあることかと。成人した人が「これで改名できる」と法的手続きをとって普通の名前にしたというニュースも耳にしたことがある。大切なのは当の本人の気もちなのでは。五十九点。