第06話 「納豆と宗教」
親父が死んだので、お袋の世話をするため田舎に帰ってきた。
そのお袋も昨年死んだ。なので、命日は月に二日。
件の尼僧はその日にやってくる。
これは、俺が、その尼僧の読経後の話を書きおこして、採点したものである。
彼女が曰く、
『もう十年以上前になるかと思いますが、ダイエット食として納豆がとてもよいとテレビで紹介されたことがありました。
食べた人と食べなかった人とでいくつかの数値を比較し、権威のある有識者のコメントも流したりしたもんですから、みんなそれに飛びついて、納豆は翌日から飛ぶように売れて品切れがつづいた。
しかし、世のなか悪い人たちもいるもので、後日、そのテレビ番組の内容は嘘だったということが発覚します。比較した数値は創作したもの、有識者コメントも本人の本来の意図ではなく、番組に都合のいいように編集された嘘八百だったわけです。
人間は現金なもので、そうなると今度は「あれは嘘だ。食べても意味がない」ということで、みな納豆を買わなくなってしまう。納豆を作る工場では、テレビの嘘が発覚する前はフル稼働で製造してたのに、発覚後には発注のキャンセルが相次いでしまう。結果、とんでもない量の納豆が廃棄処分されたそうです。
とにもかくにも、多くの人が端から端へふりまわされるということがあった。
それから十数年たったいまでは、このことを冷静にふりかえることができるようになった。「まぁあれはちょっと極端だったな」と回想される。
というのも、番組がちょっと推しただけで一日になんパックも食べるようになり、それが嘘だったとなればもう買わない。口にしない。これは極端がすぎるぞと。冷静に考えれば、納豆は健康にいいものですから、ダイエットの効果がなくとも、一日一パックくらいは食べてもいいじゃないか。イチかゼロかしかないのか。印象や悪い知識に惑わされず、もっと上手に適量を用いるべきだ。と、見解はこんな感じで落ちついているんだそうです。
これは今日の宗教観にも言えることかと思います。
どういうことかというと、若いかたと仏教や宗教全般の話をすると、とても極端だと感じることがあるんです。
宗教の業界では、いまから二十五年ほど前、オウム真理教という宗教団体、まぁあれは厳密には宗教団体の認可を得ていたので宗教と区分されてますけど、出自や内実は超能力だのを追及するオカルト研究団体だったと思うのですが、まァそれはおいといて。
彼らがおかしたテロ事件をきっかけにして、多くの人がカルト宗教団体だけでなく、宗教そのものを悪だとして、「宗教には関わらないようにしなければ」と判断しました。二十五年前とはいえ、あれだけの事件ですから。宗教団体は悪だ、不必要だ、あんなものに関わる人はどうかしてると、そんな悪い印象はいまも強く残っています。
一方で、最近は宗教ブームだともいえる。
こちらの見方では、御朱印といって帳面を作っては各地を練り歩き、朱印を集めてまわる。
あるいはパワースポットといって、各地の寺社仏閣や霊峰、その場にいくとなにか元気になる。心地よく感じる。なので、そういった場所を巡ったり。
ほかにも仏像ブームといって、仏像はいろいろな姿形をしてるものですから、それぞれを見比べたり、国宝のを生で見ようだとか、人形を集めたり、自分で彫ってみたり、そんな視点から宗教に親しむ若者が右肩上がりで増えているそうです。
神様仏様と納豆がおなじだ、というのも変な話ですが、つまりは物事は万事、両極端はよくないということです。
納豆だろうが宗教だろうが、拒絶せず、かといって妄信せず、上手に適量を用いることで、人生の質を高くしてくれる。土台としてその人をしっかりささえてくれる。
納豆であれば健康をつくってくれる。宗教であれば心をすっきりさせてくれる。それそのものに良し悪しがあるのではなく、用いかたや用いる量によって良しにも悪しにもなるということです。
大切なことは、私たちはかしこく冷静になって、印象や悪い知識、情報に惑わされず、自らしっかりと判断し、上手に適量を用いることで、人生において役立つものが増えていく。そうなると人生の質があげっていく、ということです。
ご清聴ありがとうございました』
これは腑に落ちた。人づきあいや食品添加物もおなじだと思うね。ちょっとあればすばらしいけど、そればかりだと病んでいくという。応用が効きそうな話につき、八十点。