第05話 「助けない、やさしさ」
親父が死んだので、お袋の世話をするため田舎に帰ってきた。
そのお袋も昨年死んだ。なので、命日は月に二日。
件の尼僧はその日にやってくる。
これは、俺が、その尼僧の読経後の話を書きおこして、採点したものである。
彼女が曰く、
『先日、おなじ市内の坊さんが結婚するということで、式から参加してきました。
式はその坊さんの自坊(※ 当該僧侶が所属するお寺のこと)で行われたのですが、その寺院は数十年前、門のすぐ前にある道路を拡張するということで、門から本堂の前までの土地をごっそりとられてしまった。
敷地の半分ほどがなくなってしまったうえ、本堂の目の前が道になってしまったので、建てなおしを余儀なくされ、一階部分は納骨堂に、二階を本堂、という仕様で建てなおされた。で、天井を高くとったため、ビルでいえば三階ほどのところに本堂がある。建てなおされたのももう数十年前ですから、バリアフリーもなにもあったもんじゃない。
要は、そこそこの階段をのぼらないと本堂にいけないわけです。
私は親族でもなんでもなくて、式には手伝い役でいったもんですから、式がはじまる前、どたばたしてたところ、足を悪くされた、といってもまだそんなに年はとられてない。七十歳ほどのご婦人が階段に腰をかけ、段に両手をついてお尻をあげ、次の段にあがられる。また両手を段について、と。これをくりかえして、やっとこやっとこ登っていかれている。
これを目にした、おなじく手伝いの若い僧侶が、
「肩を貸しますよ。どうかお立ちください」
と、手助けしようとしましたが、ご婦人は、
「いいえ、大丈夫です。自分でのぼれます」
と断られる。若い僧侶が、
「遠慮なさらずに、どうぞ」と言うも、
「大丈夫です。のぼれます」の一点ばりで、とかく固辞される。若い僧侶も「ですが……」と言っては断られ、問答を何度かくりかえしていると、先輩の僧侶がやってきて、
「もういいでしょう。ご本人がおっしゃってるのだから。
手助けとはいえ、押しつければちいさな親切がおおきなお世話になってしまうよ」
と、割って入られる。
後輩は先輩にいわれるともうどうしようもないので、「それはそのとおりです」と会釈して、階段をのぼっていった。
式がとどこおりなく終わり、披露宴になると、私の席はその制止した先輩僧侶の隣だったので、
「さっきのはむずかしいシチュエーションでしたね。
困ってる人を助けるのは当然だと思いますが、私も無理強いしたことがあるかもしれません」
そう話をふると、先輩は、
「社会の常識はめまぐるしく変わる。
昔は老人や体が不自由なかたが困っていたら助けるというのは、ごくごく自然なことだった。しかし、ひとつ掘り下げて考えてみると、助けの手をさしのべるというのは、相手を否定することでもある」
どういうことかというと、「自分でできる」と言われてるかたに対して、「いいえ、手伝います」と言いえば、これは「あなたにはできない」と否定することになるんだと。手助けというのはあくまでも必要としてるかた、助けを受け入れるかたにすべきことなんだと。
先輩がいうには、
「さっきのご婦人にしても、我々の二倍以上の人生を生きてこられている。人生が二倍以上なら苦労も努力も経験も我々の二倍以上だ。事実、階段も自力ののぼっていかれた。
なのに、こっちの勝手な判断で、
「あなたにはできない。私が手伝う」と強いれば、それは、当人のこれまでの努力やいまできることを否定することになる。そうなれば、当人の自尊心や矜持を傷つけてしまう。
困ってる人を助けることは当然だが、本当に困っているのか。困っている、助けを必要としてる、と勝手に決めつけてはいまいか。ここをよく見極めなければいけない時代になったってことかもしれん。
坊さんならこういうところは人一倍、気をつけていかなければいけないだろう」
と、そう言われ、いろいろ考えさせられました。
子育てにもいえることかもしれませんが、本人ができる、やる、といわれているのであれば、その言葉を信頼してまかせきる。不要な手助けをしないことがやさしさ、気づかいになる場面もあると。
このことをお伝えして、今日のお話といたします』
うーん。これはむずかしいというか、一概に語れない話だと思う。手助けされるほうは黙ってまかせればいいじゃん。なんて思う俺は、人の気もちがわからないのかもしれん。なんて思った。人の気もちを察すなんてそうそうできないけども、やさしさや気づかいはもっていたい、六十一点。