第04話 「失敗することに成功する」
親父が死んだので、お袋の世話をするため田舎に帰ってきた。
そのお袋も昨年死んだ。なので、命日は月に二日。
件の尼僧はその日にやってくる。
これは、俺が、その尼僧の読経後の話を書きおこして、採点したものである。
彼女が曰く、
『私もそうしたんですが、仏教を専門的に勉強するぞというとき、ひとつのおおきな選択肢として大学で学ぶことが挙げられます。
仏教は浄土真宗、本願寺派という宗派は、いくつかの高校や大学をもってます。
そのひとつに龍谷大学という大学があって、文学部のなかに仏教学科や真宗学科という学科があり、そこで仏教を専門的に学ぶことができます。
それぞれの学科には院も併設されていて、修士課程だと十数人、博士課程だと二、三人ほどが在籍してる。そこそこ狭き門ですが、龍谷大学は教授陣の充実や専門書の蔵書数から見ても仏教を学ぶにはよい環境ですから、要は、他大学の卒業生も院にやってくるんです。
なかには東大や京大を卒業して院にきた、という人もいるもんですから。狭き門はさらに狭くなる。で、そこに合格して入ってってるとなると、学部生から見ると、すごい優秀な人って感じに見えるわけです。
それで、私が学部生だったとき、東京大学の哲学科を卒業して龍谷大学の院にきたという先輩がいました。
こっちとはもう偏差値といいますか思想というか、脳みその土台からして出来がちがうので、哲学や仏教の話になると、とてもじゃないけど話の展開についていけない。先輩からはいろんなことを教わったんですが、先輩の思考のどれだけが理解できたかというと、心もとないものです。
で、先輩は高校は灘、東大も現役合格でいずれも留年することなく、すっと卒業してます。まばゆいばかりの学歴で、見た目もよかったので、まぁ周囲は若い学生ばかりですから、先輩は勝ち組だとか、完璧な人生を送っていると、よく噂してました。
ある日、教授と四方山話をしていると先輩の話になった。私が、
「先輩は成功ばかりで、生まれながらの勝者って感じです。
私はとてもああはなれません」
そうほめると、教授は首をかしげて、
「本当にそうかな」
そう言われて、
「彼には足りないものがある。圧倒的にだ。その点、きみは大丈夫だ」
と、先輩にはできてないことがあると。しかも、そのできてないことは、私はちゃんとできてると言うんです。
気になったので、私はそれはなんなのかと聞いたのですが、教授はそこそこ長いあいだ教えてくれなかった。まぁ私もしつこいほうなので、最後には聞きだしましたが。
先輩のできていないこととは、挫折でした。
教授は、
「彼の経歴には挫折がない。失敗がない。
きみは、彼は成功ばかりだと言ったが、失敗することには成功していないね」
そんなことを言って、
「多くの人は失敗を嫌い、日々失敗しないようにと気をはっている。
正しいことだと思うかね? とらえかた次第だと思わんかね。
失敗は人をおおきく成長させる。
強い挫折は後に当人を一生ささえる地盤になりうる。一方、栄光は人を堕落させることもある。経歴に必要なのは完璧さではない。人生に必要なのは成功だけではない。成功から、失敗から、挫折から、達成から、それぞれからなにをどう学んだか、それをどう活かしていくかが肝心だ。
彼に失敗の経験がないことは、人間像としておおきな穴になっているかもしれんよ」
と、厳しい評価でした。
当時の私は理解できなかったのですが、いまにして思えば、先輩はすこし鼻にかけるような、人を見下すような態度があったようにも思います。教授はそこを心配されてたのかもしれません。
二十歳の学生ならいざ知らず、人間四十年、六十年と生きれば、だれであろうと失敗のひとつやふたつはあるものです。しかし、その失敗を解決させるための努力だったり、二度と起こさないという自分自身への誡めだったり、失態から学べた実学だったり、失敗を乗り越えた際にできた人間関係だったり。いずれも当人の精神性をおおきく進歩させます。
ざっくばらんにいうと、失敗を犯したとしてもそうくよくよせず、おおきく深く長い目でとらえてみようということです。
たとえ大失敗であろうと、後に冷静になって評価してみると、案外その人にとって実りになっていたりする。このことをお伝えして今日の法話といたします。
ご清聴ありがとうございました』
かのエジソンも失敗は成功の母といってたしね。こういう考えかたというか常識を転換させる話は好き。プラス思考でいこうと思った、八十点。