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仏噺 ~ほとけばなし~   作者: V$_HBMA,p.nM
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第25話 「肉食」

 親父が死んだので、お袋の世話をするため田舎に帰ってきた。

 そのお袋も昨年死んだ。なので命日は月に二日。

 件の尼僧はその日にやってくる。

 これは、俺が、その尼僧の読経後の話を書きおこして採点したものである。



『昨年の末の話なんですが、坊さんの仲間うちで忘年会、まァ毎年のことなんですけども、

「今年は趣向を変えてみよう、中華はどうかね」と、幹事の鶴の一声あって、中華料理店にて忘年会を行ったんです。


 それで、特段変わらずに飲み食いとおしゃべりに勤しんでいたところ、お店のかたが気をきかせてくれたのか、サービスということでメニューにない、注文していない品がテーブルに運ばれてきて、それが七面鳥の丸焼きだったんです。

 まぁ二十五日でしたから。中華料理店もこの日ばかりはアメリカンになってまして。それはおいといて、目の前に思いっきり鳥の姿かたちで出てきたもんですから。坊さんたちで喧々諤々の議論、といっても程度は低いですが、はじまったんです。

 というのも、なかのひとりが、

「これはとても食べられない。殺生がすぎる」

 というと、

「普段から殺生はすぎている。見た目の問題かね」とか。

「そもそも浄土真宗では、殺生すべきでないと思っていても、殺生せずには生きていけない私たちのいたらなさの自覚がひとつの問題になる」

 なんて、それぞれ宗教的に思うところを述べだしたわけです。


 仏教では肉食(※「にくじき」と読む)、いわゆる肉を食べることについては様々な見解があります。

 まず肉を食べていいのか、食べてはいけないかと問えば、食べていいわけです。お釈迦さんも食べておられた。仏教では生き物を殺すこと、専門用語で殺生といいますが、殺生がいけないわけです。ですから、たとえば寿命を全うしすでに死んでいる動物。これは自らが殺すわけではないので、食べてよいと。

 また、自分のために殺された生きものでない場合もおなじです。

 原始仏教でも托鉢(※ 家を訪ねて、食事を乞うて頂くこと)のさい、仏教徒でない一般のお家に托鉢にいき、残飯を頂く。その残飯に肉が入っていたとしても、それは自らが殺したわけではないので食べてもよいと。むしろ布施されたものですから、逆に食べなければならないと。こういう理屈になってきます。

 ちなみに、その一般のお家のかたが、お坊さんが来るからということで動物を殺して肉を調達して布施をした場合は食べてはダメです。それは坊さんの殺生に等しいと仏教では考えるんです。

 

 で、先の忘年会の話ですと、

「まぁこれは中華料理屋さんからの布施だろう」

 と、そうとらえて、余さずありがたく食べる。これは仏教的な視点でのひとつの答えになります。仏の教えに照らしあわせても、十把ひとからげに

「生き物の肉だから食べちゃダメだ」

 とはならないということです。


 少々話は脱線しますが、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人の逸話で、聖人のひ孫さんが書かれた書物に、親鸞さんが、

「私が死んだら、遺体は賀茂川の魚に与えてくれ」

 と言った。という話があります。

 また、鳥葬という遺体処理の方法があります。これは現在の日本の倫理観ではまず理解されないやりかたですけども、ご遺体を野っぱらにおいておく。すると、カラスやワシが遺体を啄んで食べてしまう。そうやって遺体を処理してしまう。そんな埋葬方法があります。

 親鸞さんの発言の意図も、鳥葬を行う理由も、

「いままで沢山の命をとって生き永らえてきた。

 だから、自分が亡くなった後は不要となるこの遺体を他の命のために布施しよう」

 という仏教的な思想のもとに採る選択なんです。肉を食べて生き、最後は肉として食べられていくなかに高度な宗教的思想を見いだすことができます。


 で、とどのつまりなにが言いたいのかといいますと、普段私たちが生活していくなかに肉を食べる、生き物の命を獲ることは、現代社会において日常茶飯事のことです。だからといって命はなんでもない。軽視しても問題ないと、そう考えるべきではないということです。

 神経質になることはありませんし、毎食毎食とも言いませんが、たまに命の重みを感じつつ、例えば今日の食卓にはいくつの命が用いられているんだろう、とか。すこし深く思ってみて、命の重みと感謝を心におきつつ食事をとってみる。思いのほか、自分という存在がたくさんの他の命の犠牲のうえになりたっていることがわかったりします。

 となると、いまある自分の人生、生活、つきつめれば今日のこの時間、この瞬間は多くの他の命があってはじめて成立しているとわかる。となれば、自らの存在価値、人生の価値を見なおすことができ、価値が高まってていく。

 

 命をとってはいけない。ではなく、犠牲になった命に感謝し、命をとらなければ、生き永らえない自分の存在のありかたを誡め、謙虚に思う。

 このようなところが肝要かと思います』



「いただきます」の語源は「(命を)いただきます」という感謝の心だと聞いたことがある。一方、「お金を払ってるから、いただきますは言わなくていい」みたいな意見を聞いたことも。食に対する感覚は大切。八十六点


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