第23話 「往生安楽国」
親父が死んだので、お袋の世話をするため田舎に帰ってきた。
そのお袋も昨年死んだ。なので命日は月に二日。
件の尼僧はその日にやってくる。
これは、俺が、その尼僧の読経後の話を書きおこして採点したものである。
彼女が曰く、
『大学で文学を学んでいたとき、教授から教わったことがあります。
彼が言うには、
「人がつくった文章や物事には、その最後にその人がもっとも言いたいことがおかれていることが多い。
だから、てっとり早く肝心要を知りたいときは、最後の部分を参照してみるとよい」
と。このような教えを受けたことがあります。
いわゆる結論というものですが、仏教は浄土真宗の読経、お経を称える作法においては、ひとつの型の決まりごととして、回向句という短い文章を付して読んで終わるという、そんな作法の型があります。その回向句のなかでもさらに最後、終わりの部分には、往生安楽国。往生安楽国という言葉がある。
現代語に訳すると、
「安らかで楽なところにいって、生まれるんだ」
と、このような意味になります。
浄土真宗の教え、お念仏の教え、阿弥陀仏の教えにおいては、その基本的な考えかたとして、お念仏をもうすものはみな、かならず阿弥陀仏に救われる。かならず、です。
命を終えると同時に浄土というところにいって仏と成る。仏と成ると書いて成仏ですから、成仏した以上、心安らかにしてずっとそこですごしていくんだと、このような考えかたが教えの土台としてあります。
したがって、往生安楽国。「安らかで楽なところにいって、生まれるんだ」といった場合、先に亡くなったかたは漏れることなく阿弥陀仏に救われて浄土というところに生まれた。いまは仏となって、安らかで楽にしておられると、こうなります。
私たちが普段、生活の折りにふとしたことをきっかけにして先に亡くなったかたのことを思い出して、
「ああ、あの人はいったいどうなってしまったんだろう。
まさか、どこかで苦しんではいまいか」
と、心配になったときは、浄土真宗がもっとも言いたいこと、往生安楽国という言葉も思い出していただいて、
「そうだった。阿弥陀仏に救われたんだった。
救われたんだから今頃お浄土でゆっくり楽にされているにちがいない」
と、そう思っていただければ、まちがいないかと思います。
お通夜で聞いた話。たしかにお経の最後で「おーじょーあんらっこく」って言って鐘を叩いてるのをよく聞くな。ひとつ知識を知れた、七十一点。




