第02話 「ほったらかしの書架」
親父が死んだので、お袋の世話をするために田舎に帰ってきた。
そのお袋も昨年死んだ。なので、命日は月に二日。
件の尼僧はその日にやってくる。
これは、俺が、その尼僧の読経後の話を書きおこして採点したものである。
彼女が曰く、
『仏教の浄土真宗の宗派のうちのひとつ、本願寺派は大学や高校をいくつかもっており、そのひとつに龍谷大学という大学があります。
京都にあるんですが、龍谷平安高校という甲子園出場で有名な高校があって、その道むこうにその龍谷大学のキャンバスがあったりします。
で、龍谷大学の大本は坊さん専門に仏教を教える学校で、その歴史は四百年ちかい。そのときから数えれば日本国内でもっとも古い歴史をもつ大学でもある。それで、大学ですから当然ですけど、図書館が併設されている。で、これもあたりまえですけど、図書館ですから館長がいるわけです。
もう数十年も前の話になりますが、京都にある大学の図書館の館長同士で横のつながりがあって、館長たちで集まって、それぞれの図書館を見学し、良いところや悪いところを指摘しあって、図書館の環境を向上させていこうやと。そんな試みが行われたそうです。
それで、龍谷大学の図書館の順番が回ってきて、他所の大学の館長たちが続々とやってきた。あたりまえですけど、当時の龍谷大学の図書館館長が案内をしていったわけです。
なんの気もなしに表から裏まで一々を案内していたところ、書架が所狭しとならぶカビくさい倉庫に入ったところで、ひとりの理系出身の図書館館長がすっ頓狂な声をだして驚かれる。なにせウン百年の歴史ですから。書架には数百年前の本がほこりかぶって雑然とろくに整理もされてない状態でおいてあって、そのなかに百年以上前の東洋医学に関する本が山のように積んであった。
その理系出身の館長が腰を抜かしたのは、それらの本は出版冊数はごくごくわずか。いまではただ存在だけが伝えられるばかりで、東洋医学の業界ではもう現存していないとされているものばかりだったからです。
結局、その書架の本は相当な時間をかけて全冊が精査され、最終的には東洋医学の学会におおきな影響を与える発見になったそうです。
東洋医学の教授や研究者がたはこの発見に喜んだんですが、龍谷大学の図書館館長はとてもばつが悪かった。というのも、畑違いとはいえ、とある研究分野でとかく貴重な本を蔵していたにもかかわらず、その価値をまったく見抜けず、歴代の館長たちの時代もふくめ、長い間ずっと眠らせたままだったからです。自分の無学さと学問に対する視野の狭さが露呈してしまった。
この古書たちは長い長い間、このほったらかしの書架で泣いてたんだろうなァと、龍谷大学の学長もぼやいていたそうです。
で、その当時の龍谷大学の館長が言っていたそうですが、この話は図書館と蔵書だけに限ったことではない。人間もおなじなんだと。
どういうことかというと、とある人が望んでやまない本が書架に埋もれていたのとおなじで、どんな人であろうと、人にはだれかが望んでやまない才能が埋もれてるもんだと。
この話から学ぶべきことはふたつある。
人はみな、なにかの才能をかならずもちあわせているということ。
一方、それに気づかなければ、気づかれなければ、才能はずっと眠ったままで終わってしまうということ。
自分自身、あるいは家族や友人のすばらしい才能や長所を見ぬいて、価値をわかってくれる人とひきあわせることで、業界あるいはその歴史を揺るがすような大事につながっていくかもしれません。
そのような、人の才能と可能性についてお話いたしました。
ご清聴ありがとうございました』
うーん、俺にもなにか才能あるのかね。この年で自分探しってのもアレだけど、なんかやる気でてきた気がするので、八十六点。