第19話 「船乗りの叔父」
親父が死んだので、お袋の世話をするため田舎に帰ってきた。
そのお袋も昨年死んだ。なので命日は月に二日。
件の尼僧はその日にやってくる。
これは、俺が、その尼僧の読経後の話を書きおこして採点したものである。
彼女が曰く、
『私事ですが、先日、叔父を亡くしました。
叔父は海運会社に勤めていて、定年後は船舶の学校で教鞭をとってました。
ひらたく言えば、船長さんだったのですが、珍しい職業だけに色々な話を楽しく聞かせて頂きました。
先日、日本のタンカーが攻撃された(※ 十九年六月のホルムズ海峡タンカー攻撃事件のこと)場所も幾度となく通ったとか、あそこは本当に危険な地域だと言ってました。海賊に襲われた話だの、船上で火事が起きた話だの、おもしろおかしく話してくれた。そんなかたでした。
今から二千年ほど前、インドにおられた僧侶が残された文章のなかに、
「仏教の教えにはいろいろあるようだが、かんたんですぐに仏になれるような、そんな方法はないのか」
と、問われ、
「そんな問いは根性がなく心が弱い人が問うことだが、方法があるかないかといえば、ある」
そう答えて、念仏の話につながってくる。
一般的な、基本的な仏教では、修行や心のととのえかたが難しい。行を、功徳を積んでいく、つまり修行というものは、陸上の道をすこしずつ歩いていくようなものだと。時間がかかり、挫折もしやすい。
しかし、念仏であれば、それは水の上を船にのって進んでいくようなものだと。ただ乗っているだけで力もいらず、時間もかからない。とても楽なんだと。こんな話があります。
叔父はよくこの話を引き合いにだして、
「私は船にはずいぶん乗ったが、阿弥陀さんの船にも乗ってるんだよなァ」と、よく言っていました。
浄土真宗の考えかたにおいては、我々は船に乗ってるだけなんだ。船を動かすのは阿弥陀仏の仕事なんだ。それだけじゃない。我々を船に乗せることも阿弥陀仏の仕事なんだととらえる。私たちはただその阿弥陀仏の救いの行為を受けいれるだけであると、そう考えます。
これって、いまの話にあるようにとても易しいんです。易しすぎるがゆえに「そんなはずない」と、疑ってしまったり「乗せるのも仏の仕事だなんて」と信じられなかったり、船に乗ったのにその上で走ったりしようとする。
こういった意味で、ただ乗るだけのことが難しいと言われたりもします。
なんか複雑な話になってしまいましたが、なにが言いたかったのかというと、お念仏の教えは、船に乗るようなものなんだ。ただそれだけのことなんだと。これを知って頂ければと思います』
わかりやすいような、にくいような。乗せるのも阿弥陀さんの仕事ってのがよくわからん。だったら私たちはなにすればいいのか。すべきなのか。まァ、受けいれるだけって言ってるけど、そんなことでいいんだろうか。六十二点。