第16話 「一つの処で倶に会う」
親父が死んだので、お袋の世話をするために田舎に帰ってきた。
そのお袋も昨年死んだ。なので、命日は月に二日。
件の尼僧はその日にやってくる。
これは、俺が、その尼僧の読経後の話を書きおこして採点したものである。
彼女が曰く、
『通夜をご縁として、ひとつお話をいたします。
ただいま申しあげたお経(仏説阿弥陀経)のなかに「倶会一処」という言葉がでてきます。
お経というのは、かつて中国にあった国、漢という国の文章。いわゆる漢文ですから、書き下していまの言葉に訳をしていけば、その意味を探っていくことができます。
「倶会一処」というのは、一つの処で倶に会う。ひとつの、とある場所で一緒に会うんだと、このような意味があります。
仏教は浄土真宗の教えにおいては、その基本的な考えかたとして、お念仏を申すものはみなかならず、かならず阿弥陀仏に救われるんだと。人生を終えると同時に浄土というところにいって、そこで仏と成る。仏と成ると書いて成仏ですから。成仏した以上、ずっとそのお浄土で心おだやかにすごしていくんだと、このようなところが基本的な立場としてあります。
したがって「倶会一処」。一つの処で倶に会うといったとき、だれとだれが会うのかというと、亡くなったかたと、もっと先に亡くなった方々が出会うんだと。
どこで会うのかというと、それは浄土というところなんだと。
で、どうなるのかというと、みんなで心安らかにしてすごしていくんだと。このようなことになります。
私たちが普段、生活の折りに、ふとしたことをきっかけにして先に亡くなったかたのことを思い出して、
「ああ、あの人はいったいどうなってしまったんだろう」
「たったいまのこのとき、どうされているんだろうか」
そのように思われたときは、この「倶会一処」という言葉も思い出していただいて、
「そうだった。
お浄土というところで、みんな一堂に会して、つもる話に花を咲かせているにちがいない」
と、このように思っていただければ、まちがいないと思います』
通夜でのお話。「倶会一処」という言葉は墓石に彫ってあるのをみたことある。親父とまた会えるのならば、すんでの差で会わせることができなかった娘の話をしたあげたい。七十八点。




