第14話 「お葬式のお花」
親父が死んだので、お袋の世話をするため田舎に帰ってきた。
そのお袋も昨年死んだ。なので命日は月に二日。
件の尼僧はその日にやってくる。
これは、俺が、その尼僧の読経後の話を書きおこして採点したものである。
彼女が曰く、
『この間、ご門徒さんから、
「ちょっと気になることが……」と、質問を受けました。
それは、最近はお葬式に参列すると、式後に荘厳壇(※ 式中、遺体やお骨、ご本尊が安置される正面の壇のこと)に飾ってあったお花を束にしていただくことがあります。
もらって帰ってお仏壇やお墓に生けるけれど、量があるので余ってしまう。立派で保ちもいい花なので、玄関や食卓にも飾りたいけど、葬式の花だから不吉な気がする。この葬式の花は食卓に飾っても大丈夫なものだろうか。という問いでした。
先に答えを言うと、大丈夫です。
もちろん仏教由来の考えかたがあっての答えです。
仏教の宗祖は釈尊というかたです。一般的な呼び名はお釈迦さんですけども、そのお釈迦さんは覚って仏となった。覚ったからこそお釈迦さん、釈尊と呼ばれたのですが、その覚りの具体的な内容に、諸行無常というものがあります。
ざっくばらんにいうと、この世のありとあらゆるものが時の経過とともに変わっていく、というものです。
花でいえば、鮮度も変わるし、見た目も変わる。在る場所も変われば、所有者も変わる。物事すべてが変わっていくのがあたりまえのことなのに、私たちはつい以前の在りかた、過去のことにとらわれてしまう。とらわれすぎると悩んでしまう。迷ってしまう。苦しむことにもつながっていく。
過ぎ去ってしまった在りかたにとらわれることなく、いまをしかりと見つめるべきだというものです。
ということは、その花は、葬式に用いられたときは葬儀の花だけども、参列者に手渡された以上、手渡された参列者の花束となる。仏壇に飾られれば仏壇の花となり、お墓に供えらればお墓のお供えの花となる。そうなれば、もう葬式の花ではない。おなじように、時と場合に応じて食卓の花になるだろうし、玄関の花にもなるだろうし、枯れて処分するとなれば、捨てるべきものになれば、ゴミとなる。焼かれて灰となれば、灰となる。いずれも葬式の花ではない。
このように、変わっていくことを知っていまの在りかたを認めていく。受けいれていく。これが仏教的な考えかただ、ということになります。
と、いま言ったようなことをお話しましたが、先方は、
「とはいっても葬式のものですし、やっぱり気になります」
と、なかなか納得いかないご様子。
なので、こちらが、
「葬式の花といいますが、なにをもって葬式の花だといえるんでしょうか。
葬式に用いられる前はお店にあったお花ですし、その前はあたりまえですけど、地面に生えていたわけです。そりゃはじめて見た、受けとったご縁はお葬式にあったのでそう思うのでしょうけど、それはお花の無常のうち、つまり変化のうちのほんの一場面にすぎなんじゃないですか」
と言うと、「もともとは土に生えたもの」という言葉が腑におちたようで、最後にはすっきりされたようでした。
このご門徒さんの考えかたは、仏教というよりも神道、神社さんの思想に近い。
仏教では、お葬式、ひいては人が死ぬことは、さっきも言いましたように諸行無常ですから、生まれたものはかならず死に至る。あたりまえのことなんだととらえます。しかし、神道では死は穢れなんだ。不浄で不吉なものなので、儀式や塩で清めていかないといかねばと、こういったとらえかたをします。
日本では仏教も神道も同時に信仰され、千五百年以上がたっていますので、思想が混ざりあって理解されるのはよくあることで、それでそのご門徒さんも迷ってしまったのかもしれません。
ともあれ、この話においては、仏教と神道はいっしょくたにされがちですが、思想にはかなりのちがいがあるだとか、この世の物事はなんであれ変わっていく。過去にとらわれすぎると悩んでしまう、大切なのはいまなんだとか、そういったことを知っていただければと思います。
ご清聴ありがとうございました』
諸行無常という言葉は知っていたが、お釈迦さんが覚ったことだとは知らなかった。神道と関係あるのかこの話? 清め塩とか聞いたことあるなァとかいろいろ連想しておもしろかったけど、やっぱ神道のくだりはわからないので、六十三点。