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仏噺 ~ほとけばなし~   作者: V$_HBMA,p.nM
11/25

第11話 「米兵の遺骨」

 親父が死んだので、お袋の世話をするため田舎に帰ってきた。

 そのお袋も昨年死んだ。なので、命日は月に二日。

 件の尼僧はその日にやってくる。

 これは、俺が、その尼僧の読経後の話を書きおこして、採点したものである。



 彼女が曰く、

『以前、大阪にいたときにお世話になったご住職に聞いた話ですが、

 彼が言うには、

「もう数十年も前の話になるが、米兵が数人、この寺を訪ねてきたことがあった」と。


 欧米人はもう体格からしてちがいますから。ましてや軍人となると、ご住職とは大人と子供ほどの威圧感のちがいがある。

 ご住職がおそるおそる用件をたずねると、米兵のお偉いさんとおぼしき人が、

「先の大戦で行方が知れなくなったアメリカ軍人を探している。

 軍人だから日本人と戦って死んでいったと軍も家族も覚悟している。しかし、確認がとれない以上、我々も家族にあわせる顔がない」

 と、要は日本に出兵したアメリカ兵の安否を調査しに来日したということでした。

 お寺を訪ねてきた米兵たちは、不明者の名簿や最後に所在確認がとれた時期、場所、個人個人の特徴をまとめた情報を書類にして、相当の量をもってきていたそうで、それを見たご住職は彼らが本当に必死に安否不明者を探していることを察した、感じたそうです。

 それで、ご住職は、多数の戦没者の遺骨を寺院にあずかっていること。そして、そのなかに米兵のものもあるということを先代の住職から聞いてましたので、その旨を話し、米兵たちを引き連れて、何十年ものあいだ一度も開けたことがなかった戦没者の共同墓のなかの土を掘りかえして、骨壺を回収したそうです。


 米兵たちは骨壺の多くを持ち帰ってしまったそうですが、数年後、お偉いさんとおぼしき米兵の人がまたお寺にやってきた。

 ご住職がお茶をだすと、その米兵は、

「おかげで数十人もの行方不明者の確認がとれた。

 遺族があなたに礼を伝えてくれとのことで、またここにきた」

 と、礼を言われ、問いも口にされる。

 というのも、骨壺のなかにはお骨以外にも、故人が所持していた認識票や服の切れ端、なかには家族の写真が入っているものもあって、確認はこれ以上ないくらいしっかりとれた。遺族の安堵のしようはいうまでもないだろうと。

 問いというのは、あの時代、日本人にとってアメリカ兵は敵国の手先、まさに戦うべき対象だったのに、なぜこんなに丁重に扱われたのか、私はそれを聞きたい。と、真剣なまなざしでご住職に問われたそうです。

 当時の理由なんてご住職は知りませんから、想像して答えられる。

「仏教では、人は亡くなったら仏になると考える。

 また、諸行無常という考えかたがある。

 つまり、鬼畜米英、日本兵はアメリカ兵を憎き敵として戦った。結果、アメリカ兵が息絶えると、そのアメリカ兵は仏になった。もう鬼でも畜生でも憎き敵でもないと考えた。諸行無常だから。アメリカ兵はたった今までは敵だったが、息絶えた今はもう仏さんなんだ。

 今や敵ではないものをまだ敵だと思って、恨みや敵意を抱くのは執着である、煩悩であると考えたんだろう。執着は仏の教えに反す。

 その米兵は敵どころか仏だ。相手が仏である以上、丁重に扱うのは当然のことだ。

 先代や当時の心ある大阪の市民は、そう考えられたに違いない」


 ご住職はつづけて、

「同時に、それは我々日本人の智慧でもある。

 戦争にかぎらず、何事においても「あれは敵だ」「これは邪魔だ」と、いつまでもとらわれていると、その人の苦しみはいつまでもつづく。戦争は典型的だ。

 ひとつの命が尽きたところに直面し、ちいさな規模だが、その闘いは終わったと。そう心に決着をつけて尽きた命を丁重にあつかうことは、亡くなった人のためだけではないはずだ。人を殺めた当人にとってこそおおきな意味がある。昔の人たちはそうも考えたはずだ」

 と、ご住職の思うところを伝えると、米兵のお偉いさんは、

「よくわかった。とてもよくわかった」

 と、深くうなずいて帰っていかれたそうです。


 正直なところを正直に述べれば、私たちは故人に対してよい感情だけがある、よい思いしかない、例外なくそうだ。そんなはずはないでしょう。関係がうまくいかないまま、恨みや憎しみを互いに抱きつつ亡くなっていった、そういうことがあるのもまた人間関係の性です。色々と思うところがあった、恨みつらみもあったと、それも当然なんです。こっちもむこうも人間ですから。

 そんななか、亡くなったあの人はもう仏さんなんだ。これ以上、思うところだの憎さだの抱く必要はない。そう考えて、思いを次のステップにすすめていく。思いや感情も無常だと。


 と、まぁ今日の話においては、丁重にあつかう、つまりは仏さんに手をあわせるということは、亡くなった人のためだけでなく自らの心境にも強く影響してくると、このことをお伝えしたかったわけです。

 ご清聴ありがとうございました』



 死んだ婆ちゃんが仏壇を拝むのは自分のためだと言ってたけど、こういう意味だったのだろうか。諸行無常ってのがよくわからなかったけど、話はおもしろかったので、八十六点。

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