第七話 教室の空気と秋の空は変わりやすい
優菜の弁当をありがたくいただき、俺は優菜を連れて教室へと戻った。教室では昼食を食べ終えた生徒たちが仲のいい友人たちと談笑を楽しんでいる。時計を見るとまだ授業が始まるまでに十分近く時間が残っていた。
記憶を失うまでの優菜であれば、ここから読書に耽ったり、一人で時間が過ぎるのを待っているのだが、今日も同じようなことをしていては意味がない。今日はたった一言でもいいから優菜に俺以外の生徒と会話をして欲しかった。
だが、教室とは社会の縮図のような場所で、仮に優菜に声を掛けたいと思う奴がいたとしても、空気がそれを邪魔をする。他の生徒の目が気になって声を掛ける勇気のある奴はいない。が、裏を返せばその空気さえ変えてしまえば、優菜に話しかけるハードルは下がるはずだ。
俺がやるべきことはその空気を変えることだ。優菜にはきっと自分から誰かに話しかける勇気はないだろうし、無理に話しかけても相手に引かれるだけだ。だから、俺が優菜に話しかける奴を探してやらなければならない。
「ほ、本当に座っているだけでいいの?」
教室の入り口で俺のワイシャツの背中に摑まりながら優菜は心配そうに俺の顔を見上げた。
「ああ、問題ない。お前はただあそこに座っていればいい。そしたらきっと女子生徒がお前に話しかけてくるから、さっき言ったセリフをそっくりそのまま口にして、その後は適当に笑顔で相槌をうっていればいい。できるな?」
優菜は不安げな表情をしばらく浮かべていたが、不意に覚悟が決まったのか「わ、わかったよ……。やってみるね……」とコクリと頷いた。
俺が優菜の背中をポンと叩くと、優菜はゆっくりと教室に入っていき席に腰を下ろした。
それを見届けると、俺は廊下の壁、それもちょうど優菜の姿が見える位置でもたれかかってポケットからスマホを取り出す。そしてスマホから伸びるイヤホンを耳に差し込むとスマホを弄るふりをしてさりげなく優菜の姿を観察する。
イヤホンからは教室内の音が聞こえてくる。今、俺のスマホは優菜の座る机の上の彼女のスマホと通話状態になっている。これで優菜の会話をこの位置からでも聞くことができるというわけだ。
優菜は教室でぽつんと一人、席に座っていた。当然ながら優菜に声を掛ける生徒などだれもないない。それどころか周りの生徒たちは優菜の存在をないものとして扱っているようだった。
いや、正確に言えば一部の生徒たちは違っていた。
曽我部美幸だ。
曽我部達は優菜を指さして何かをひそひそと囁き合って笑っていた。その笑い声があまりに下品で吐き気がする。
だが、俺はそんな曽我部達の挑発には乗るつもりはない。
まあ、黙って見ていろ。そう心の中で呟くと再び優菜へと視線を戻した。
しばらくスマホを弄るふりを続けていると俺の前を目的の人物が通り過ぎる。
それはクラスメイトのとある女子生徒だった。彼女は俺の前を素通りするとそのまま教室へと入っていく。が、彼女は不意に何かに気がついたように足を止めたが、すぐに優菜の方へと歩いていく。
そして、優菜の席の前に立つと俺の予想通り彼女に話しかけた。
「多分、座る席を勘違いしてるんじゃないかな?」
イヤホン越しに女子生徒の声が聞こえる。
これこそが俺の作戦だ。優菜から話しかけることができなければ向こうから話しかけざるを得ないように持っていけばいい。いくらクラス中が優菜に話しかけづらいような空気に覆われていたとしても、優菜が自分の席を占拠していたら話しかけざるを得ない。
そこから話のきっかけを作っていけばいいのだ。
きっと曽我部達がさっき笑っていたのは、優菜が席を間違えていることに気がついたからに違いない。
普通ならば自分の席に他の生徒が勝手に座っていたら文句の一つでも言うだろうが、クラスメイト達は昨日担任から優菜に記憶障害があると聞かされているはずだ。仮に優菜が席を間違えていたとしても、そこまでおかしいとは思わない。優菜だからこそできる作戦だ。
そんなことにも気づかずに曽我部達はニヤニヤと優菜の動向を見守っていた。
声を掛けられた優菜は緊張のあまり何も言えずに硬直していた。
「優菜、頑張れ……」
俺はそんな優菜に電話越しに声援を送る。俺の声は優菜の左耳に密かに挿し込まれたブルートゥースイヤホン越しに彼女に届いているはずだ。
俺が声を掛けても優菜はしばらく固まったままだったが、優菜は目の前の女子生徒を見上げると声を振り絞る。
「ご、ごめんね……わ、私、怪我をする前の記憶がなくてまだ慣れてないんだ……」
と、ひと際か細い声で優菜は何とか女子生徒へと話しかけた。
これが優菜と俺以外のクラスメイトとの初めての会話だった。俺は優菜の頑張りに今すぐ抱きしめて頭を撫でてやりたいくらいだったが、ぐっとその気持ちを堪えて優菜の観察を続ける。
優菜は申し訳なさそうに女子生徒に頭を下げていた。が、そんな優菜に女子生徒は何やら可笑しそうにクスクスと笑う。
「別に謝らなくてもいいんだよ。あなたの席はこっち」
そう言うと女子生徒は二つ後ろの席を指さした。
優菜は立ち上がり恥ずかしそうにぺこりと頭を下げると、自分の席へと戻ろうとする。
が、すかさず俺が「優菜、まだ話すことがあるだろ」と言うと、優菜は「あ、そ、そうだった……」と思わず声に出して返事をして、再び女子生徒を見やった。
優菜は女子生徒へとゆっくりと歩み寄ると、恐る恐る女子生徒へと視線を送った。
「あ、あの……わ、私、本当に記憶がなくて失礼なのはわかっているんだけど……」
と、俺があらかじめ伝えておいたセリフを口にする。すると女子生徒はハッとしたように目を見開いた。
「あ、そうか。木浪さんにとっては初めましてだったね。私の名前は緒方未海だよ。木浪さん、よろしくね」
そう言うと女子生徒は優菜に握手を求めようと手を差し出した。そんな彼女を見て優菜は少し動揺していたが、顔を赤らめながらも恐る恐る手を伸ばして緒方と握手を交わした。
そんな二人の姿を見て、俺はようやく安堵する。
彼女をターゲットにしたのは正解だった。
優菜と握手を交わしていたのは緒方未海。この学校の生徒副会長を務めている生徒だ。彼女は何というか生徒副会長をやっているだけあって責任感の強い性格で、特に女子グループのどこかに所属しているわけではなく、どのグループとも適度な距離をとりながら付き合っている、なんというか大人な性格の女子だ。
そんな彼女ならば、きっかけさえ与えてやれば優菜と会話もするだろうと見込んで今回ターゲットにさせてもらったのだが、どうやら俺の予想は正しかったようだ。
優菜は緒方に連れられて自分の座席へと歩いていく。
優菜が席に座ったところで、緒方は何やら不思議そうに優菜を見やった。
「それにしても木浪さんがこんなに可愛い子だったなんて知らなかったな……。あ、別に前が悪かったってわけじゃないんだけど、かなり前と印象が変わったから少しびっくりしちゃった」
緒方もまた優菜の変貌ぶりに驚いているようだった。
「その髪型、よく似合ってるね」
そう言って緒方は優菜に微笑みかける。
突然褒められた優菜の頬がぽっと赤くなる。そして、何やら恥ずかし気に俯くと「そ、そんなことないよ……」と首を横に振った。
「お、緒方さんの方が可愛いと思うよ……」
「わ、私? そんなことないよ。私は全然可愛くないよ……」
と、緒方は少し動揺した様子で否定する。
が、優菜の言うように確かに緒方はかなり綺麗な顔をしていた。が、生徒副会長という肩書と本人の真面目な性格から特にクラスメイトからちやほやされるようなことはなかった。
と、そんな二人のもとへ他の女子生徒が数人やって来る。
「ねえ未海。木浪さんと二人で何を話してるの?」
どうやら緒方がクラス内の嫌な空気を払しょくしてくれたらしい。それまでは視線はちらちらとは送りながらも全く声を掛けようともしていなかった女子生徒たちが、緒方を間に挟む形で一人一人と優菜の周りへと集まってくる。
気がつくと優菜の周りには6.7名ほどの女子生徒が集まっていた。
「木浪さんのその髪型可愛いなあ。どこで切って貰ったの?」
「木浪さん、どこの化粧品使ってるの? え? もしかしてノーメイクなの?」
などと、堰を切ったように次々とクラスの女子たちが優菜に話しかけ始める。
矢継ぎ早にかけられる質問に優菜は「え、駅の近くの美容院だよ……」だとか「メイクは特にしてないよ……」などと、たどたどしくも一つ一つ丁寧に答えていた。
俺はそんなクラスメイト達を眺めて安堵しつつも、空気一つで大きく変わるクラスメイト達の反応に一抹の恐怖も感じていた。
が、とりあえずは優菜が他の生徒たちと会話ができてよかった。午前中の優菜のボッチ具合と比べると上出来すぎる内容だった。
俺はそっと耳からイヤホンを外した。あとは俺のアドバイスがなくても一人で何とかできると判断したからだ。俺はスマホをポケットに入れると用を足すためにトイレへと歩き始める。が数歩進んだところで俺は足を止める。
「ホントつまんねえ奴……」
何やら気に食わない顔で教室を出ていく曽我部達が俺の目の前を横切って女子トイレの方へと歩いて行った。
そんな曽我部達の後姿を眺めながら俺は思う。
つまんないのはお前たちの方だ……。