第六話 初めての学校
よろしくお願いします。
そして俺にとってはいつも通りの、記憶を失った優菜にとっては初めての登校の日がやって来た。
驚くことに優菜は俺よりも一時間も前に目を覚ましたようで、俺が目を覚ましたときには俺と優菜の分の弁当と、朝食を作り終えていた。そう言えば優菜の担当医が優菜が失ったのはエピソード記憶だからどうとか言っていたが、料理の作り方は覚えているようだ。
寝ぼけまなこを擦りながら優菜が久々に作ってくれた味噌汁の味に感動していると、洗面台から制服姿の優菜が現れる。
「お、お兄ちゃん……これでいいかなぁ?」
と、優菜は自分の頭を指さす。
どうやら、髪のセットが上手くいっているかが心配なようだ。が、優菜の不安とは裏腹に髪は完璧にセットされており、俺が「完璧だ」と親指を立てると「ふぅ……」と安堵のため息を吐いた。
食事を終えた俺が制服に着替えて部屋から出てくると優菜は既に玄関でケンケンしながらローファーの踵に指を入れていた。
「は、早くしないと遅刻しちゃうよ……」
と、優菜は腕時計を気にしながら俺を急かしてくるので俺も慌てて靴を履くと、いよいよ家を出発する。
どうやら優菜は初めての学校に胸を躍らせいてるようだった。どうやらご機嫌なのだろうか「♪ふ、ふふふ~ん」とどこで覚えたのかよくわからない鼻歌を歌いながら歩いている。
おそらく優菜の待ち受けている環境は生温いものではないのだろうが、とりあえず、ご機嫌なのはいいことだ。俺はそんな優菜の後姿を眺めながら密かに安堵する。
が、家を出て十分ほど歩いたあたり、正確に言うと学校へと続く大通りにたどり着き、同じ制服を着た生徒たちがぞろぞろと学校へと向かって歩いていくのが見え始めたあたりで優菜の歩くスピードが急激に鈍化した。
心配になった俺が優菜の顔を覗き込むと、彼女の表情が明らかに家を出た直後よりも曇っていることに気がついた。
「お、おい、どうかしたのか?」
そう尋ねたところで優菜はついに立ち止まる。優菜は俺の顔を見やると何かを言いたげに口をもごつかせる。
「なんだよ。困ったことがあるならはっきり言え」
そう言うと優菜は両手を胸に当てると何かをぼそっと呟く。
「…………たくない……」
「え?」
「わ、私、やっぱり学校に行きたくない……」
と、さっきまでの威勢の良さが嘘のように優菜がそんなことを言い始める。
「は、はあ? もう学校は目の前だぞ? 今更、何を言ってるんだよ……」
優菜はなにやら顔を真っ赤にすると今にも泣きだしそうな目で俺を見つめてくる。
「や、やっぱり学校に行くの来週からじゃだめかな……」
「な、なんでだよ……」
「だ、だって……」
と、何かを言いかけて優菜は俯いてしまう。
どうやら優菜は威勢よく家を飛び出したはいいが、いざ学校に近づいて他の生徒たちを見ると急に登校するのが怖くなってしまったようだ。
とりあえず俺は優菜を自販機横のベンチへと連れて行くと元気のなくなった優菜の背中を摩ってやる。
「お茶でも飲むか?」
「う、ううん……大丈夫だよ……」
「別に俺はお前がそれでいいなら来週から登校するってことにしてもかまわないけど、本当に来週になったら登校できるのか?」
「わ、わからないけど……」
「じゃあどうする? まあ、親父に頼み込めば他の高校とか、通信制……そうだな、学校にほとんど行かなくても課題をやれば卒業できるような学校に転校できるかもしれないけど……」
そう言うと優菜は激しく首を横に振った。
「お、お兄ちゃんと同じ学校がいい……」
「なら、ちょっと我慢してでも学校に行っておいた方がいいんじゃないか?」
そう尋ねると優菜は「そ、そうだけど……」と歯切れの悪い返事をする。
このままでは遅刻してしまう。まあ事情が事情だけに遅刻をしたところで教員から咎められることはないかもしれないが、これから高校デビューしようとしている優菜にとって遅れて教室に入ってくるのは少し悪い目立ち方をしてしまうかもしれない。
俺は言葉を慎重に選ぶ。優菜の気持ちは俺には理解はできないが、きっと記憶喪失になった人間にとって初めての登校は想像を絶する恐怖なのだということは容易に理解できた。
「そ、そうだな……もしも優菜が勇気を出して学校に行けたら、お兄ちゃんがパフェを奢ってやるよ。昨日の帰りにファミレスで食っただろ?」
いや、我ながらかなり子とも騙しな手段だとは思う。が、今の俺にはこの程度の言葉しか出てこなかった。
が、優菜は……。
「き、昨日のパフェ美味しかったね……」
と、少し食いついてきた。
「あ、あれだ。昨日のは普通のパフェだったけど、学校に行ったら今日はデラックスパフェを御馳走してやるよ」
「で、デラックス?」
「そうだ。デラックスはイチゴの量が倍、さらには普通のパフェには付いていなかったマスクメロンまでついているんだぞ。どうだ。食べてみたいだろ?」
まあ値段も倍なんだがな……。
「め、メロン美味しそう……」
優菜はそう言ってわずかに口角を上げる。どうやらこの子供だましの誘惑作戦はかなり筋のいい作戦のようだった。
あと、もう一押しだ。
「わかった。じゃあこうしよう。今日はお前にとって入学式みたいなもんだからな。入学祝いとしてオプションのカスタードプリンもつけてやろうじゃねえかっ!!」
優菜の瞳がわずかに揺らいだのが見えた。
「どうだ? 頑張れそうか?」
「う、うん、頑張る……」
優菜はそう答えると小さく拳を握って立ち上がった。
そして、再び俺たちは学校へと向けて歩き始める。が、優菜は他の生徒に見られるのが怖かったのか結局、教室に着くまで金魚のフンのように俺のワイシャツの背中を掴んだまま背中に隠れるようにして歩いていた。
※ ※ ※
そして運命のときがやって来た。きっと優菜にとってこの瞬間がもっとも怖かったのだと思う。優菜に背中を掴まれたまま開けっ放しの教室のドアをくぐった。俺の背中を掴む優菜の手にぎゅっと力が入り、俺もまた額に冷や汗が浮かんでいた。
教室内はいつものように仲のいい生徒同士での談笑が続いていたが、生徒の一人が俺たちの存在に気がつくとドミノのように他の生徒たちも俺たちに視線を向けて、一気に教室が静まり返る。
俺と優菜の足音だけが静まり返った教室に響き渡る。
俺は激しく鼓動する心臓を手で押さえながらゆっくりと優菜の席へと歩いていく。
その時、一人の生徒が隣の生徒にこそこそと何かを話すのが聞こえた。
「あ、あれ……誰だ?」
「え? 学校内にあんな可愛い子いたっけ? もしかして、あれ木浪の恋人か?」
どうやら生徒たちは俺の背中にしがみついている美少女が、あの小太りおさげメガネの地味な女子生徒と同一人物だということに気がついていないらしい。
クラスの男子を中心に「あれ、誰だよ?」「やばいぐらい可愛くねえか……」などとひそひそ話が聞こえてきたが、不意に生徒の一人が「いや、もしかしてあれ……」と驚愕の眼差しで優菜を見やると「木浪優菜じゃねえか……」と呟いた。直後、他の生徒も「う、嘘だろっ!!」「でも、口元とか鼻の感じが木浪と一緒だぞ……」などと信じられないものを見るような目で優菜のことを見つめていた。
や、やばい、緊張で心臓どころか内臓全部が口から飛び出しそうだ。
優菜もまた緊張が限界に達しているようで、俺の背中を掴む手がぶるぶると震えていた。
と、そこでようやく、俺と比較的親しい男子生徒が俺のもとへと駆け寄ってきて優菜を見やると「お、おい木浪、もしかしてお前の後ろにいるの……」と尋ねてくる。
「あ、ああ俺の妹だよ。お前だって知ってるだろ?」
俺は必死で平静を装ってそう答えた。すると、クラス中から「「「「「えええええええっ!!」」」」と異口同音に驚きの声が響いた。
「お、おい、嘘だろ。本当にこの美少女が木浪妹なのか?」
「ああ、入院中に少し痩せたんだよ。それに眼鏡もやめた」
そんな俺の言葉にそいつは口を手で覆っていた。まあ、そんな反応をするのも無理はない。兄である俺ですら優菜の変貌ぶりには驚いたんだ。
俺は驚愕する生徒に「わるいが、ちょっと道を開けてくれ」と言うと優菜を背中にくっつけたまま優菜の席へと向かった。
「ここがお前の席だ。本当は俺はもっと後ろの席なんだけど、先生が特別にこっちに移動させてくれたんだ。わかんないことがあったら何でも俺に聞けよ」
そう言って優菜を席に座らせると優菜はいつも以上にか細い声で「う、うん、わかった……」と小さく頷いた。優菜を席に座らせたところで俺は教室の一番奥の一角へと目をやる。
そこには優菜の最も恐れる存在、曽我部美幸とその一行が陣取って座っていた。
そして曽我部もまた他の生徒たちと同じように驚愕の眼差しを優菜に送っていた。が、不意に俺の視線に気がつくと何やら不快そうなそれでいて憎しみに満ちたような表情を浮かべると、俺から視線を逸らした。
学校に戻って来たまたイジメてやろうと企んでいた曽我部にとって優菜のあまりの変貌ぶりは想定外だったようだ。
そんな曽我部の表情は俺にとってわずかに心地よかった。が、その一方でこの変貌ぶりがかえって曽我部の琴線に触れたことも同時に理解し恐怖も覚えた。
それから三時間ほどの間、優菜の学園生活はつつがなく進んでいた。授業中も男子生徒たちはチラチラと優菜に視線を送っていたし「か、可愛いよな。やっぱり……」というようなひそひそ声も聞こえてきたので、少なくとも優菜の容姿が大多数の生徒を魅了していたことには間違いなさそうだ。
だが、事態はそう簡単には好転しない。
二時間目、三時間目の休み時間になっても、優菜に話しかける生徒は現れない。
もちろん優菜に声を掛けるような友人が教室にいないのも事実だったが、あれだけ可愛い可愛い可愛いと囁き合っていた男子生徒も優菜には近づこうとはしなかった。どうやら優菜に声を掛ける勇気のある男子生徒はいないらしい。
このままではマズイのはわかっていた。だから、休み時間には仲のいい男子生徒をわざと優菜の近くに集めて、優菜を混ぜて談笑をしようとしたが基本的に俺は陰キャだし俺と仲のいい生徒たちにも女子生徒にフランクに話しかけられるような奴はいない。
そうこうしているうちに、いつの間にか昼休みを迎えていた。
さすがに優菜もクラスメイト達の視線に疲れただろうと思い、彼女を連れてひと気のない校庭隅のベンチを陣取った。
それぞれ膝の上に弁当を置くと弁当箱を開く。
「お、おぉ……美味そう……」
今までは当たり前のように食っていた弁当が今日は輝いて見えた。と同時に俺はこんなありがたいものをいつも当たり前のように食っていたのかと考えると何だか申し訳ない気持ちになってくる。
「ってか、俺の好みを完璧に理解している布陣じゃねえか。もしかして俺の好みを覚えているのか?」
弁当箱にはウィンナーに切り干し大根、さらにはブロッコリーとこれまで優菜が作ってくれたのと同じようなおかずが敷き詰められていた。驚いた俺が優菜を見やると優菜は首を横に振った。
「へ、部屋に献立が残ってたんだ……お、お兄ちゃんのお弁当にはウィンナーは絶対に入れることって……。あ、あと、栄養バランスもちゃんと計算するようにって……」
なるほど、どうやら俺は優菜に完ぺきに胃袋を握られていたようだ。本当に優菜には頭が上がらない。
俺はさっそくウィンナーに箸を伸ばすとおもむろに口に放り込む。
泣きそうだ。優菜の味付けはいつも通りだった……。
「美味い。やっぱり優菜の作る弁当が最高だよ……」
素直に優菜を褒めてやると優菜は「あ、ありがとう……」と照れるように頬を赤らめる。
俺は優菜の弁当に舌鼓を打ちながら、午前中の出来事を回想する。
まあ、まだ焦る必要は全然ない。が、せめて今日のうちに一言ぐらいは他の生徒たちと会話をして欲しいというのも本音だった。
「お前から誰かに話しかけてみればどうだ? 俺と仲のいい奴でよかったら俺が仲介するけど……」
そう提案すると優菜の表情が曇る。
「わ、私はお兄ちゃんと仲良く出来ればそれでいいよ……」
「友達が一人もいない学園生活はさすがに辛すぎるだろ。って、俺も友達は少ない方だからあんまり強く言えないけど、本当は他の生徒とだって仲良くしたいだろ?」
優菜は何も答えなかった。が、否定はしなかったことや表情から察するに友人を作りたいというのが本音のようだ。
「わ、私、誰かに話しかける勇気なんてないし……」
確かにそれもそうだ。優菜の場合誰かから話しかけてもらえない限り、俺以外の生徒と会話を交わすことはありえないだろう。が、その周りの生徒たちから話しかけられる気配がないのもまた事実だ。だが、考えがないわけではない。
「なあ、優菜」
「な、何かな……」
「仮に他の生徒から話しかけられた適当に相槌をうつぐらいのことはできるか?」
俺の質問に優菜は「う~ん……」と考える。が、すぐに俺を見やると「わ、わからないけど、頑張ってみるよ……」と答える。
「わかった。なら、俺に考えがないわけではない」
こうなったら、プランBを実行に移すしかないな。