後編
さて、王子の話に戻ろう。
根っこが居ぬ間に彼は外へと抜け出していた。それもそうだ。彼をそこに留まるように道を阻んでいたのはたった一匹の狐と根っこのみだったのだから。望みの大樹は長い微睡の中に沈んでいて、彼が外に出たことにすら気づいていない。
彼は自身が連れていた50数名の兵隊たちを探していた。唯一持っていた財産だ。だがどこを見渡しても木々ばかりが茂っていて、森の地理に不慣れな彼はすっかり目を回していた。
そんな時、大きな影が彼に覆い被さった。
『なんてことだ』
青い瞳孔の壁が、王子の後ろに立っていた。鉄の糸が縫い付けられた口からは生臭い異臭が漏れてくる。巨人が身を屈めて彼を見つめている。
そうだ。思い出した。彼は目の前の巨人に襲われ、兵は半壊したのだ。
『お前、森の誰かに好かれたね? 卑しい、卑しい盗人どもめっ……。私に枷を付けるだけでは飽き足らず唯一の楽しみまで……』
鉄の糸が軋みを上げる。充血した目を潤した涙が下目蓋に乗った。
『誰だ? お前を助けたのは』
威圧をかけられ、恐怖に身を震わせる。巨人が手を置いている巨木が傾いている。王子の脳裏に根っこの娘がよぎった。
「い、言うものか化け物め! 立ち去れ!」
『おお、おお、小男よ。さもしい勇気を讃えて忠告しよう。森の鳥はお喋りでね、助けた者の正体なんて見当がついているのだ。だが、あの娘を目にしたお前はきっと哀れみに手を貸したくなるだろうと、そんなことはあってはならないと、願っていたのだ』
娘の話と知り、王子は自然と巨人の言葉に耳を傾けていた。王子の様子を瞳孔に映した巨人は、大げさに一つ目を片手で覆い天を仰いだ。
『なぜならば、娘は人間でありながら根が伸びる範囲でしか生きられない! 外を知るお前からすれば何と小さな生き方だろう! ああ! あの根が断ち切れれば! きっとお前と外を歩むことが叶うだろうに!』
彼は怒気を露わに巨人の言葉をはねのける。
「——なにを馬鹿なことを! 戯言も大概にしろ!」
戯言なものか、巨人の太い指が王子の後ろを指した。振り返ると、一匹の狐が幾本ものの木の根を飛び乗ってこちらまで駆けてくるのが見えた。遠くには、ぽつんと長い根を引きずった娘が立っている。
『確かめてみるがいい。何よりの証拠に、森の根は私を絡まない』
狐が彼の顔に尻尾を打ち付ける。倒れこんで森の天蓋を見上げると、既に巨人はそこにいなかった。
倒れこんだ拍子にぶつけた頭を抑えながら、狐に袖を引かれて王子は歩く。天井から落ちてくる葉は、地面に敷き詰められた根の間に挟まれている。溢れた葉が幾重にも重なって新しい地面になる。緑の絨毯のようだ。少女の美しい瞳を連想した。彼の瞳よりも一段明るく、光に照らした翡翠のような。
彼女は王子に駆け寄ろうとしたが、頭の根っこに引っ張られてつんのめった。慌てて走り寄ると、彼女は大きく口を開いて何かをまくしたてる。怒りに見開かれた両目が鮮やかに見上げてくる。最後に大きく息を吐いて、彼の手を握って道を先導し始めた。
――そうか、彼女は心配していたのか。
すとんと、王子の胸に納得が落ちた。
話もできない。自分のためにもならない。食べ物と寝床を与え、挙げ句には心を痛める。胸が締めつけられた。彼女ほど、自分に優しくした者はいなかった。
地面を引きずる長い根の束に、彼は歯がゆい気持ちになった。
寝床になっていた根の間に戻ると、今までに見なかった果実が転がっていた。少女は果実を一つ取って彼に差し出す。不安げに王子を見上げている。赤い果実を掴んで齧りつくと、味は薄いが食べられた。安心するよう微笑む彼の姿に、彼女は喜びに飛び上がった。ぱらぱらと根の隙間から土が零れ落ちて地面を跳ねる。
恩を返したい。できることならば、彼自身の手で助けたい。だが今の自分に何ができるだろう。
十の回数、太陽が地面に身を隠してから事は起きた。
その日、不在だったのは狐だけだ。根っこの娘は彼がまた逃げ出さないかと見張っていた。
「王子!」
頭上から聞き覚えのある呼び声が降ってきた。彼の兵だった。
「ようやく見つけました。巨人に見つからないうちに逃げましょう」
躊躇うことはない。待望していた助けだ。
王子はちらりと後ろを見た。寂しそうに微笑む彼女が彼を見ていた。唾を飲み込むと、大股で近づき手を掴んだ。
「君も来てくれないか」
少女はきょとんとした顔を見せる。自分の状況がわかっていないのだ。
「助けたいんだ。こんなところに君のような美しい人が閉じ込められているのは見ていられない」
彼女は困ったように笑った。
「何を言ってるのかわからないわ……でもきっと、ありがとう、なのよね。ううん、いいの。わたし、知りたかっただけなの。わたしにできること」
森の異分子だった。可能性に怯えて根の中に身を潜んでいた。彼女は森の生活でささくれた王子の手を撫でた。
「だから、ありがとうを言うのはわたし」
森は始めから彼女を受け入れていた。変わらないことを望んでいたのは彼女だけだ。この場所は、彼女がどれほど変わろうと何一つ変わることはなかったのに。
彼の手を離し、一歩離れる。困惑した様子で口を開く。
「君は……」
森の湿気に混じってけぶるような臭いが鼻をついた。咄嗟に上を見上げると、焦ったようにこちらを見下ろす兵の姿があった。
「先鋒から伝令がきました。火の手は回り、巨人の攪乱に成功。ここまで回ってこないとは限りません。急いで!」
「何を……」
何をしている。声が出かかった。だが、次に彼が行ったのは兵から剣を貸し付けるよう手を伸ばすことだった。目を白黒している彼女の根の束を掴み、鉄の剣で横薙ぎした。
呆然とした声が落ちる。一滴、切られた根から雫が垂れ落ちた。彼女の手を掴んで抱き上げる。大木の枝が大きく揺れていた。
「すまない、本当は君ともっと話をするべきなんだが――」
彼女は自分の呼吸音しか耳に入らなかった。
全身の肌という肌に繋がっていたものから突然断絶されたのだ。自分がどこに立っているのかも判断がつかなくなっていた。全身が乾いていく。ゆったりとしていた視界が、瞬くと同時に移動している。
身動きの取れない彼女を地上まで持ち上げる。
「だが、これで君は自由だ」
大きく揺れていた翡翠色の瞳を彼は見なかった。
兵が彼女を地上に下ろす。彼女は自分が認識できるものがあまりに小さく、視界に入るすべてが鮮明に感じることに困惑していた。蛇の赤い舌が木々を囲み、彼女に手を伸ばす。舌に苦みを感じる。消化できない炭のようなものが葉脈に塗りたくられたような心地だった。
「どういうことなの、なんで……こんな、こんな森、わたし、知らない」
王子も太い根を上る。座り込む彼女に手を差し伸べる。
行こう、と彼は言った。彼女にはわからなかった。今までと同様不快ではなかったが、その手を掴むには多くの情報が彼女を責めすぎた。
見覚えのある黄土色の尾が視界を遮った。王子が低い呻き声をあげた。狐が鍛えられた歯を以って彼の手に噛みついたのだ。振り払われた狐は、地面に降り立つと彼女を背にしたまま威嚇した。
「お逃げ! 川向こうへ! 池を目指すんだよ!」
狐がなぜ彼を襲っているのか、彼がなぜ怒りの表情を見せているのか、彼女にはまったくわからなかった。だが、狐の言葉は彼女を救ってきた。必死になって頷いて、慣れない視界の中で走り出した。王子が背に制止の声を投げる。
「待ってくれ! 俺は君を助けたいんだ!」
王子の声は記号だ。彼女には届かない。
根っこの彼女を追うよう、王子は兵に命じるが彼の仕事は王子を見つけ救出することだ。これ以上の詮索は無用だ。
一つ息を吐くと、兵は狐の首根に剣を突き刺した。もう疲れた、国に帰ろう。
切れた根の先から蓄えた水が垂れ流される。
ドングリ池。以前、狐が彼女に向かって話したことがあった。願いが叶う池だ。きっとそこへ行けば助かる。助けられる。だが、放出される水の流れが速い。
呼吸が荒い。皮膚が乾いて動きが鈍る。彼女の駆ける足は動物たちに劣る。
みんなで笑い合っていたかった。
ここで根を伸ばして、森にいる彼らと光を浴びていたかった。
光に向かって、根を伸ばしたかった。
彼女は彼女のあるがまま生きていただけだ。間違いなんてなかった。間違っていたのは、こんな結末自体そのものだ。
視界が霞む。緑と土の色が混ざる。肌寒い。方向感覚がわからなくなる。歩けば歩くほど、進めば進むほど全身から力が抜けていく。木から切り離されるだけで、彼女という根っこは無防備で歩くことにすら耐えられない。
みんな優しかった。誰も、間違っていなかった。優しさで行ったことが、間違いであるわけがない。ただ、正しさが通じ合えなかっただけなのだ。通じ合えなかったからぶつかってしまったのだ。誰もが根っこのように柔軟に曲がるわけではないのだから。
倒れこむと、流水が彼女を打った。冷たくて、柔らかで、最後まで彼女に寄り添った。水のせせらぎが、声が、彼女の耳朶を叩く。
――お願いです。お願いです。この子をずっと森の中にいさせてください。森の中は温かくて、げんきがいっぱいで、みんながやさしいです。きっとしあわせになれます。
それはずっと昔。彼女が死んでいた日、幼い狐が池に願った言葉。不思議と、彼女はそれをずっと昔に聞いていた気がした。
「少女は願った。どうか、動物たちの優しさが人間にも伝わるように。彼らの思いが通じるように。願いの池が、彼女の願いを叶えたかは、この物語を耳にした貴方たちが知っているだろう――おわり」
吟遊詩人が終わりの旋律を奏でる。酒場の人間は口々に話の感想を言い合っている。
俺は懐から勘定を出す。勘定を置いた手に、つい先ほどまで酒を注いでいた女が手を重ねてくる。
「ねェ、さっきの話どこで聞いたのさ。詩人じゃなくて狩人だろう? アンタ」
俺はその手を外した。
「さてね。川の流れに乗って、話が聞こえてきたのさ」
そう、片目を瞑って答えた。
彼女は川の畔で倒れていた。手足は乾いた木のように線が走っていた。
起き上がらせると、彼女は言葉が通じることに驚いた。次に、お願いがあると口にした。
俺はそんなことよりも治療をする方が先だと言ったが、彼女は翡翠の目を曇らせて首を振った。自分は木の根なのだと。木がないと生きられない根なのだと。
――ただ、わたしの言葉を、みんなの声を、覚えていて欲しいの。花に、森の草木に、動物たちに。みんな知ってる。けど、わたしには人の言葉がわからない。人にはわたしの声は届かない。だから、あなたに届けて欲しい。
頷くと、彼女は芽が芽生えるように微笑んだ。
光をいっぱい浴びた、力強い笑みだった。