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中編

遅くなって大変申し訳ありません(震え声)

もうちょっと続きます。

 彼女は根だった。正確に言うと、無数に入り組んだ根の一つだった。

 水が好きだ。土が好きだ。太陽の光が好きだ。仲間たちの間を潜る生き物が好きだ。だが、自分の体だけは好きではなかった。


「やあやあ、こんにちは」


 狐が話しかけてくる。数少ない友だちだ。ふさふさした尻尾と、和やかな目元が可愛らしい。


「こんにちは、きつねさん」


「今日は天気がいいよ。とてもいいよ。雲が晴れて、太陽が顔を出して挨拶してる。そんな根の間に隠れてないで綺麗な顔をお出しなさいよ」


 彼女は自身の長い根に埋もれながら首を振った。


「いやよ。外に出たら、みんな変な顔をするわ」


「そんなことないさ。ほんの少し、みんなと違うだけだよ」


「ほんの少しじゃないわ。たくさんよ」


 彼女は意固地だった。


「きのこの足みたいに綺麗な毛皮じゃないか」


「毛がなくて真っ白いだけよ」


「指だってまっすぐで、器用に曲がるじゃないか」


「すぐに折れてしまいそうで狩りに向いてないわ」


「二本足で歩けて身軽じゃないか」


「遠くに行けない足なんて意味がないわ」


 彼女は意固地だった。

 頬を膨らませて、翡翠の瞳で頭上の狐を睨みつける。


「固くない鼻も、牙のない歯も、全部全部嫌いよ」


「あたしは好きだよ」


「それでも嫌いっ」


 イーっ、と桃色の舌を表に出す。頭から生えている根の束を胸元に寄せて、ここからは動かないぞと見せつける。苔でも生やしかねない根付き方だった。

 狐は尻尾を大きく揺らして、自分が座っている木の根を叩いた。


「自由に育て過ぎじゃないかい? 一言ぐらいちょうだいな、あんたの娘だろう」


『根っこは自由なものさ。伸びて、ぶつかって、曲がって、それでも伸びるんだ。どれだけ引っ張ったって意味ないよ』


 揺れた木の葉が落ちる。彼女の瞳に似た翡翠色の葉だ。


「自由にしても放っておき過ぎって意味だよ、若造」


『ム、私はもう千だ。人間からは名付けられるほどなんだぞ』


「ふん、人間から名付けられることが偉いなら街の小物どものほうがよっぽど偉いさ。自分のガキ一匹躾けられない千年樹は、このさき二千、三千生きたって若造さ」


 意地悪く狐の尾が根を叩く。小枝が揺れて木の葉が舞う。狐が根っこの間にいる彼女に鼻を近づけて、目を細める。


「根っこのお嬢ちゃん、いつでも出ておいでよ。出てきたら根っこが伸びる場所まで連れて行ってあげる」


 返事はしなかった。彼女はますます根の中に顔を埋めた。狐は満足そうに、足場の根っこを避けながら走り去った。獣は森の木が滑ることを知っている。彼らは森の中の歩き方を知っている。ここで蹲っている彼女よりもずっと。


「きつねさんは、意地悪だわ」


 でも噓つきではなかった。無数に入り組んだ根っこは、噓つきを絡めとる。


『行ったっていいんだよ』


 舞った若葉が彼女の頭を撫でた。


「いい」


『彼らは君を嫌ってなんていない。ちょっと珍しいだけで、すぐに好きになるよ』


 知っていた。森は彼女に優しい。きっと、歩くのも好きになる。だから行かないのだ。好きになったら、もっと遠くに行きたくなる。離れられないこの場所から、離れたくなる。

 彼女は自分の目と根が好きだった。好きなままでいたいのだ。だから「行かない」とだけ返した。好きな場所から離れたくなかった。


 朝、目を覚ますとコマドリの美しい歌声が森を彩っていた。


「――光を浴びよう。川のせせらぎを聴きましょう。歩けばいいドングリが見つかるわ――」


 ひょっこりと太い根の間から顔を出す。頭部から胸部にかけての橙色が木漏れ日に照らされている。陰った灰色の腹が見えた。コマドリは頭上の木の枝に止まっていた。


「――さぁさ歩き出しましょう森の中を――」


「ねえ」


「――見つかるわ友だちそして愛――」


「ねえったら」


「――彼の羽の美しさったら――」


「繁殖期に歌ってるんじゃないわよ色ボケ鳥!」


 思わず声を荒げると、カラカラと鳴き声を上げてコマドリが飛び去った。陽射しの強い日だった。

 今度は木陰から怯えた様子のクマの姿があった。彼女がどんぐりを投げつけると慌てて逃げて行った。物陰から、白い尾先を持った小麦色の尻尾が見えた。


 根の彼女は息を吐く。わかってはいるのだ。みんな心配している。そして、自分たちが知っている森の姿をもっと見せたいのだ。

 膝を抱えて、木々を透かして目を細める。光は変わらずそこにいる。森は何一つ変わらないのに、住んでいる住人だけが変化を求める。


 突如、燦々と輝く光が遮られる。彼女が驚いたのも無理はない。彼女を驚かせた何かは小さく何事かを呟くと、根の間に倒れこんだ。人間との出会いだった。

 動く気配はない。息をしているのかも怪しい。意を決して近づく。形が自分によく似ている。天の光に似た頭の毛皮を汚すように、点々と赤が混じっていた。


「似た動物……初めて見た」


 でも、もう死んでしまったかもしれない。触れてみると、動物は呻き声をあげた。

 生きている。どうしよう。彼女には治療の仕方がわからない。

 根の外に顔を出した。ずっと見守っていたのだろう。外には彼らがいた。


「ね、ねえっ、この子、怪我してるの。誰か助けてくれない?」


 蛇が木を伝って近づいてくる。「そいつは人間だ、根っこのお嬢ちゃん」


「にんげん?」


「そうだよ、この森の池に近づいて悪さを企むんだ。しかもそいつ、巨人から逃げてきたんだろ。なら助けるなんてもってのほかだよ。見てみなよ、森の動物たちは一匹だって近づかない」


 木々から顔を出す動物を見る。枝の上で見下ろしている鳥を見る。誰も鳴かない。いつもなら騒がしい動物たちが静かだ。


「だからさっさと外に放り出して、根の間に戻るんだ。いつもみたいにね」


 ――いつもみたいに。


「お黙り。いい加減、長い舌を口の中に戻しな小僧」


 気づけば、狐がいつものように尻尾を揺らしていた。


「おぉ、こわいこわい。逃げるさ逃げるさ。ぼくは食われる側なんて真っ平ごめんだからね。だけどね――」


 人間贔屓もほどほどにしなよ。蛇は二股に別れた赤い舌を隠すと、根っこの間に身を滑らせていった。

 狐に顔を向ける。黄土色の尻尾が人間の頬を撫でた。


「どうしたんだい。助けるんだろ」


「た、助けて、いいの……?」


 尻尾が地を叩く。地面に落ちている木の葉が散った。


「あんたは助けたいんだろう? あたしは手伝うだけさ」


 胸元に集めた根っこをぎゅっと掴む。間違っているのか、間違っていないのか、彼女にはわからない。だが、話してみたい。自分と似ている人間と話をしてみたい。それだけだ。それだけで、根の間から動かなかった彼女はどうしたらいいかと、初めて狐に尋ねた。








 ――お伽噺だと思っていた。


『ひい、ふう、みい……何匹だったか。こうも多くちゃ数えきれないな』


 彼は息も絶え絶えに大木の陰に隠れている。手の甲を噛む。震えを隠す。体の震えは鎧に染み、音を立てようとする。巨人は人間の恐怖の音を逃がさない。


『ああいたいいたい。わかっている、逃げたやつがいる』


 巨人は頻りに口元を撫でると、生き残りを探すために歩き出した。

 なぜこんなところまで来てしまったのだろう。

 端から、願いの叶う泉など信じていなかった。この遠征は発言権を持ち合わせておきながら権利を行使しない王子を体よく追い出すためのものだ。少なくとも、彼はそう思ってていた。たった五十の兵を遣わせて、遠征とは笑わせる。


 行って、収穫もなしに帰るだけ。たったそれだけだ。彼らは王子のお守だった。だが、全体の三分の一は森に入ってすぐに巨人に潰された。残った半分は果敢に応戦した。もう半分は王子を逃がすために囮になった。彼は逃げ出す少数になった。

 森は深い。土の代わりに木の根が入り乱れている。ここの木々はつるりと滑り、走るには到底向かない。彼の目の前で一目散に逃げた男は、足を滑らせて腰の骨を折った。まるで森が我々を拒んでいるかのようだった。

 まずは、森から出なければならない。国に報告をしなければ。生きているのかどうかもわからない王子を救出するのはそれからだ。




 件の王子が目を覚ますと、目の前には裸体の少女がいた。彼は驚きに身を起き上がらせようとしたが、痛みで身動きもままならなかった。ここはどこだ。彼は土の上で寝転がっていた。太い根の間にいるようだ。空の光は、頭上の大樹の葉の群れに隠れて窺うことはできない。

 直前の記憶を振り返る。彼は森の中に入った。だが、入ってからの記憶がない。


「――」


 少女の口が開く。言葉ではない。彼には奇声にしか聞こえない。

 鈍痛を走らせる頭部を撫でると、葉が巻いてあった。慌てて少女が王子の手を止める。


「君がやってくれたのか?」


 指差すと彼女はじっと見つめ返してきた。肯定と受け取っていいだろう。


「すまない、ここはどこで、君は――」


 少女はきょとんとしている。長い髪で隠れているが、凹凸のある白い肢体が露になっている。上着を脱ぐと、それを少女にかけた。若葉色の瞳が三度目蓋で瞬く。彼は顔を背ける。当然のことをしただけなのに、邪な考えをしたと表明した気分だった。


「その、寒くないのか、こんな……」


 彼女は彼がかけた上着を見ている。こちらからも言葉は通じないらしい。

 しかし長い髪だと視線で毛先を探すと、まるで見当たらないことに気がついた。それどころか、木の根の下に潜っている。

 頭髪に触れると、すぐにそれが長く伸びた根であることがわかった。人間離れした美貌がじっと見上げてくる。この少女は、木と繋がっている。





 人間とはどのような生態をしているのだろう?

 彼女の目下の疑問はそこだった。人間の毛皮は数枚あって、剥いだり被り直したり自由自在。彼女がこの数日で人間を観察してわかったのはそれぐらいのことだった。


「どうして人間は自分の毛皮をわたしに渡したの?」


「さてね、お嬢ちゃんを自分の仲間と勘違いしたんじゃないかね」


 根っこの疑問に、狐は飄々と答えた。彼女は頷いた。間違いない。だってここまで似ているのだから。


 だが、彼と彼女とでは大きな違いがあった。それは栄養の摂り方だ。

 彼女は根だが、他の兄妹()から養分を分けてもらうことでようやく食事ができる。彼女は彼女だけでは成り立たず、自分と繋がっている兄妹にしがみつくことでしか生きることができない。彼は違う。彼は自身の口で養分を確保する。己だけで成立する。きっと、彼は彼女のようなモドキではなく立派に人間をしている。

 問題はそこだった。彼のことは彼しか知らない。他に知っている者がいないからだ。

 大樹の根の真下に座り込む人間を見る。足元には鼠の死骸が放置されている。早朝、狐が持ってきた食事だった。


「今日も食べないのね」


 何度目かの嘆息をする。なぜ食べないのか、彼女にはわからなかった。

 実のところ、彼こと王子は自分の手で状況を打破しようと考えていた。しかし、根っこが認めなかった。森の住人は彼を警戒している。人間を匿うと決めたのは彼女なのに、安易に彼を外に出してみんなを怯えさせるなんてあってはならない。

 木の実は食べる。水も飲む。でも肉がだめ。狐よりも大きいのに、狐よりも食べない。


「ねえ、あなたたちってどうやって生きてきたの?」


 隣に座る根っこから、王子は目を逸らす。彼女はむっとして彼の正面に移動する。


「……きつねさんは雄だからって言ってたわ。でも、あなたには調子を教えてくれる尻尾も羽根も鳴き声もない。じゃあ顔を見るしかないじゃない。見せてくれないと、何もわからないわ」


 王子の両頬を掴んで、彼女は目を大きく開いて観察する。顔が一瞬で赤らんで、緑の瞳がよく映える。思わず頬が綻んだ。


「わたし、あなたのこと好きよ。だって森の色をしているもの。きっと皆も認めてくれる。これだけ素敵な色をしているのに、愛されないわけがないわ」


 金の髪に引っかかっている葉を指に挟んで、彼に見せつける。王子は葉を指差し、次に彼女の目を指した。


「わたしも同じ色をしているの?」


 驚きに目を見張る。彼は葉を持つ手を掴んで、彼女の両目に並べる。


『綺麗だ』


 彼の言葉はわからないが、決して蔑みのものでないことはわかる。彼女が今まで見た中で、最も美しい微笑みを彼は浮かべていたからだ。


 人間の世話をするにつれて、彼女も何かをしなければと考えた。何かをしてあげたかった。そのためには根の間から抜け出て、地に足を立てる必要があった。


「ほぉら、頑張んな」


 ぺしぺしと狐が地面を叩く。一人で外界に飛び出すのを恐れた彼女が、助力を願い出た相手だった。要は応援係である。


「い、いま出る、出るから急がせないで……」


 彼女の声は震えていた。太い根にしがみつき、足を上げる。自分の根が重い。頭から下に引っ張られる。ひとたび力を抜けば、根元に真っ逆さまだ。足を引っかけると、自分の身体を持ち上げて地上に転がり込んだ。森の葉群れの天蓋をかいくぐった木漏れ日が白い肌に降り注ぐ。むにゅと、胸を上下させる彼女の額を狐の肉球が叩いた。


「おめでとう」


 にんまりと笑う狐を真似て、根っこもにんまりと笑い返した。


 頭から生えた根を引きずって森の中を散策すると、今まで避けていた動物たちが視界の端々に映った。肩に飛び乗り、足の間を走り抜けた。誰も彼もが気にせずに彼女に触れ回る。まるで森の一部のように扱っている。森は何も言わない。何も言わないまま、認めてくれる。彼女がいることを許してくれる。

 両目から蓄えた雨水が零れ落ちた。兄妹たちから分けてもらった大切な水なのに、次々とあふれ出て止まらなかった。

 狐が肩に飛び乗って、彼女の頬にすり寄った。


「真っ直ぐお歩き。根っこが引っ張られるまでは、どこまでも、どこまでも歩けるよ」


 どこにも行けなかった。だが、どこかには行けた。今はそれだけでいい。

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