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前編

 わたしたちは歩いている。石を踏み、地面に張り巡らされた木々の根を避けて。


『遠くへ行くのかい』


 川を挟んで、一つ目の巨人が問いかける。彼は自身の腕ほどの大樹の間から顔を出している。縫い付けられた口から、もごもごと声が聞こえた。


 ――いいえ、長い道を行くんです。


 わたしたちは答える。


『それは遠くじゃないか』


 ――実は遠くないんです。ただ、長い道を歩いているだけなんです。


 巨人は青い瞳で私たちを見下ろした。波打たぬ泉のように深い青に、赤子を抱えた二人の夫婦と馬が映っている。


『赤子がいる。……疲れさせるのはよくない。私の一歩は、お前たちの五十歩に勝る。どうだい、送ってあげよう』


 わたしたちは首を横に振った。


『おお、この大きな体が恐ろしいか! 口をよく見てみなさい。鉄の糸で縫ってある。こんなにも哀れで痛々しい私の何を恐れると言うのだ』


 再度首を振った。


 ――わたしたちが恐ろしいのは、この足で歩けないことです。歩けることを忘れて、どこへも行けなくなることです。貴方の足は貴方がお使いなさい。互いで互いを尊ぶことを忘れてしまっては、森の中も満足に歩けません。


 巨人は黙り込んだ。わたしたちは、巨人の何十分の一にもなる足を使って歩いた。

 森の中は水音が絶えない。昨晩雨が降ったのだろう。岩の表面を覆う足の長い苔は無限に水滴を落とす。重い足音が聞こえる。川の向こう側で、木々の間から大きな青い瞳がじっと見つめて並行している。


『そっちは危ないよ。大きな泉がある』


 巨人の声が木々を揺らす。わたしたちは歩く。


『泉に用があるのかい。泉が何なのか、知っているのか』


 巨人が鉄糸を軋ませて笑っている。ゆっくりと、わたしたちよりも大きな一歩を歩んでいる。


『泉を使うには条件がある。森の生き物にしか知らない条件さ。知っているのか? 知らないだろう。知るはずがない。お前たちは外から来たのだから』


 ――知っています。


 わたしは顔を上げた。布に包まった我が子を胸に抱き、青い瞳を見上げる。森に差し込む光は巨人で隠れている。


『いいや、知らない。知らないから、今お前は知っていると言ったのだ!』


 巨人は走り去った。大きな足音はわたしたちが目指す先に向かっている。

 わたしは足を動かした。動かなかった。足元を見ると、巨大な木の根が絡まっている。大丈夫だ、夫が言った。だが絡まった根は固く、わたしの足を縛りつけている。


 ――足音が近づいている。


 落ちた木の葉が震えている。巨大な影が森の奥から現れる。間に川はなく、木々に並ぶ巨人が立っている。


『お前は噓つきだ。だから根に絡めとられた』


 鉄が軋む。如何なる力を用いても外れないのだろう。ヒビ一つない。鉄の枷が開こうとする口を閉じる。巨人が不愉快そうに口元を掻いた。


『昔人間をたくさん食べた。それからこの枷がつけられた。確か鍛冶屋の、誰だったか。エルフだ。そいつが作った。それからまともに食べることができない。少し違うな。食べることはできるが好きな喰い方ができない』


 根は外れない。焦った夫が腰元の刃物で根を切りつける。浅い。根の中に、みっしりと実が詰まっているようだった。


『一番好きな喰い方はね、生きたまま人間を口に入れて嚙み締めるんだ。骨をぱきりと歯の間で鳴らすと、口の中で悲鳴が響く。これがまたいい。磨り潰すように歯ぎしりをすると、もっと美味くなる』


 巨人が近づいてくる。ゆっくり時間をかければ根は外れるかもしれない。だが、今は時間がない。


『この枷がついてからは森の生き物は食えなくなった。代わりに、外から来る生き物を食うようになった。泉に近づくやつと、根に引っかかるやつ。お前たちは食べていい人間になる』


 わたしは赤ん坊を夫に渡した。夫は頷いた。馬に跨り、大回りをして泉に向かうのだ。


『見捨てられたのか、かわいそうに』


 ――わたしたちは、あの子のためにここまで来たのです。


 だから、己を捨てることなど造作もない。

 わたしを覆い隠す手のひらが頭上に広がる。空は見えない。土汚れの目立つ指が、わたしの最後の空だった。


『では、まずは腕から』


 初めに言い出したのは妻だった。願いを叶えてくれる泉があると、妻は言った。

 信憑性が欠ける噂話であったが、藁にも縋る思いだった。彼女にとっても、己にとっても。このままでは、自分たちの足の裏の感覚さえ忘れかねない。

 進むためだ。妻は信じていたようだったが、私は嘘でも真でも構わなかった。

 手綱を振る。馬が走る。この森を狩場する狩人から借りた馬だ。森特有の道なりも軽々と駆けてゆく。


 木々がさざめいた。悲鳴が響き渡る。聞き覚えのある声だった。私は手綱を離さなかった。

 あんな化け物の存在は知らなかった。狩人たちも口にしなかった。自然豊かな、時折不思議なことが起こる森だと言っていた。嘘を吐いていた? わからない。私は狩人ではない。

緊張で首が汗ばむ。自身の服で拭う。胸に抱えた赤子の重さが、私を現実に引き戻す。

 妻はもういない。いなくなった。せめてと願うのは、泉の噂が真であることだ。


 何度後ろを振り向く動作に抗ったのか、ついに馬が足を止めた。

 泉というよりも池だった。だが、間違いなく私たちが目指した場所だという確信があった。くぼ地だというのに水底まで澄んでおり、藻一つ生えていない。


 私は腰を下ろした。赤子を池の前に置き、銅貨を投げ入れる。妻が言うには、価値のある物を投げ入れることで願いが叶うらしい。両手を合わせ、願いを唱える。唱える。唱える。流水の音だけが、私の声を遮った。


 変化はない。ここまできて、ただの噂だったのか。

 木々の陰から、白い尾先を揺らしている狐が見えた。何かを咥えている。咥えたそいつを池の中に投げ込むと、私を向いて鳴き声をあげた。


 近づいて見ようと立ち上がろうとしたが、自分の視点が想像よりも高い場所へ移動した。違う。浮いたのだ。巨人の指で。


『危ない危ない。間に合ってよかった』


 私は泣き叫んだ。妻の断末魔が耳にこびりついていた。鉄の糸に、赤く濡れた髪の毛が絡まっている。私の未来だ。


 眼下の包まった赤ん坊を見る。私たちは失ってばかりだ。これ以上何を失うのか。私は叫んだ。願いを叫んだ。自身が分断され、咀嚼される音を聞きながら力の限り叫んだ。


 巨人は最後の食事にと、地面に残った布を捲った。


『なんだ、腐ってるじゃないか』


 残念そうに口元を拭う。巨人は森の入り口に戻る。後に残ったのは、小さな狐と包みが剥がされた赤子だけ。

 狐は包みの端を咥え、赤子を池の中に引きずり落した。









 死した赤子は森の子になった。森の生き物となった赤子を、食うことのできる巨人はいない。斯くして、子どもを失った夫婦の願いは叶い、彼らの子どもは息づいた。


「おわり」


 俺が語り終えると、周囲からブーイングが湧いた。


「おいおい、これで終わりってねえだろよ!」

「そうだぜ。巨人を倒す話じゃなかったのか?」


 俺は両手で彼らを抑える。聴衆はせっかちでいけない。


「確かにここで話は終わりだが、続きがあるんだ。俺を誰だか忘れたのか? 動物の声を聞く、類まれなる狩人だぜ」


 みなが呆れた目で俺を見る。


「狩人のくせに詩人の真似事をするけったいな兄ちゃんだろ」

「酒場で評判の飲んだくれ、も追加ね」


「うるせえ! 続き聞きたいのか! 聞きたくねえのか!」


 木のジョッキを片手に、全員が隣と顔を見合わせる。


「暇だしな」

「次は酒の肴になるもんを頼むぜ」


 一つ、俺は咳をする。壁際の吟遊詩人が、慣れた様子で弦楽器を構える。酒で顔を火照らせた男たちを見据え、再度口を開いた。


「じゃあ続きだ。金にも酒にもならないが、失われた森への手向けだ。〝逆さ虹の森〟と呼ばれた森の、ある木の根の話さ」

後編で終わり。今年中を目指します。

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