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トイレの廊下

作者: 楠木鷹矢

怖い話は書いてみたいけれど、自分が苦手なので全然怖くなりません。

 僕の働いている会社は、古い古い建物の中の一室を借りて営業している。なんでも戦前からあるとかで、冬は隙間風が酷くて、凍えるように寒いし、夏は空調もついていないので、ただひたすらに暑い。最低限の改築は何度か行われたようだけど、あくまで使用に問題を起こさない程度に修理しただけなので、床もドアも年中きぃきぃと軋んでうるさい。

 古い以外はとりたてて問題はないのだけれど、ただ一つ閉口する事がある。二階建てとは言え、横広がりな結構大きな建物で、入居しているオフィスの数もそこそこ多いのに、トイレが一か所しかないのだ。若干神経質で、過敏性大腸症候群の気がある僕には、それだけがちょっと辛かった。

 僕のデスクのあるオフィスからトイレにたどり着くためには、公共の小さな給湯室を抜け、二度三度と折れ曲がる廊下に沿って歩いて行く。途中、節電のために、モーションセンサーが取り付けられ、薄暗い曲がり角を曲がると、ぱっと電気が付くようになっていた。ここの大家さんは、なかなか財布のひもが固い。


 その日も朝からクレーム対応に追われて、僕は少々気が立っていた。「そんな事言われても、出荷はここでやってるわけじゃないんだから、どうしようもないだろ」小声でぼやきつつ、廊下の角を曲がった。いつもとちょっと感じが違う気がしたが、頭の中が一杯になっていた僕はそのまま歩き続ける。二つ目の角を曲がり、センサーが僕の動きを感知する範囲に入ったところで、僕は立ちすくんだ。

 明るく蛍光灯が照らしてくれるはずの廊下は、薄暗かった。その暗くて赤っぽい照明の中に、幾人もの人がぐったりと壁に寄りかかっているのが見えた。何人かは床に倒れている。暗い上に、座っている人もうつむき気味で顔が見えないので、生きているのか死んでいるのかすら、僕にはわからない。あるはずのない奇怪な光景を目の前にして、二、三歩後ずさると、背中が壁あたる。心臓がものすごい速さで打っていて、口から飛び出しそうだった。

 混乱て訳の分からない事を叫びながら、僕は今歩いてきた廊下を逆に走り出した。角を曲がろうとしたところで、誰かに勢いよくぶつかった。「うわぁ」はじかれて後ろにあとじさりながら叫ぶ僕の声に、高い声の悲鳴が混じる。

 

 悲鳴の主は、いきなりぶつかってきた僕に驚いたらしく、床にしりもちをついたまま、呆気に取られて僕の顔をみていた。柔らかそうな長い黒髪をざっくりと後ろにまとめ、トレーナーにジーンズという、ラフないでたちの、二十代後半くらいの気の強そうな美人である。建物の管理を仕切っている、大家の娘の夏南さんだった。

「何やってるのよ!」怒りを含んだ声が廊下に響く。「危ないでしょう?子供じゃあるまいし。廊下を走るなって小学校で習わなかったの?」「廊下が…電気が…赤くて…ひ、人が倒れてて…」全く分かってもらえそうもない事を口走りながら、僕は後ろを振り向いた。けれど、目の前に続く廊下は、ちょっとぼんやしりした白い蛍光灯に照らされた、いつもと同じ廊下だった。

「あ、あれ?」僕は呆気に取られてぽかんと口を開けたまま、言葉が出ない。「す、すみません。お怪我はなかったですか?」僕は素直に謝っておいた。「気を付けてくださいね。ここは公園じゃないんですから」彼女は言うと、くるりと踵を返し、自分のオフィスに戻っていった。

 あれはいったい何だったんだろう。まだ用が済んでない事に気づき、気を取り直して明るい廊下を戻って行く。曲がり角まで来ると、そっと覗き込んだ。いつもの廊下だ。「疲れてんのかな…いや、だからってそうそう幻覚なんて見えるわけないよなぁ。」ぼそりとつぶやくと、僕は男子トイレのドアを開けた。「まんがじゃあるまいし」


 得体の知れない光景に出くわしたのは、それっきりだった。それから二年経っても、相変わらず客のクレームは来るし、僕の腹は痛くなって下るし、夏南さんは忙しそうにビルの中を忙しそうに歩いていた。残業で遅くなった日も、僕は無事にトイレで用を足し、帰宅する事が出来た。


「すまんが、明日はちょっと早く出てもらえないか」部長が申し訳なさそうに言う。「パーカーが連絡を入れて来るんだが、俺は今日の午後から出張でな」「あ、構いませんよ。」僕は快く引き受けた。部内で顧客対応できる程度の英語が話せるのは、僕と部長だけだ。

 外国からかけて来る客は嫌いじゃない。彼らは比較的のんびりしていて、あまり嫌な思いはしないからだ。特に米国西海岸から発注してくるパーカー・エヴァンズは、よくあれでビジネスやってられるなと思うほど、ノリの軽い、のんきなヤツだった。

「悪いな。その分早めに上がっていいから」部長はにっこり笑った。おそらくこの人は、世間のブラック上司のイメージから、一番遠い人だと思う。


「見積もり書…、融資同意書、他にはっと」次の日の朝早く、デスクで必要な書類を揃えていた僕の腹が重くなる。「行っといた方がいいな」静かな建物内を、小走りに駆け抜けながら、僕はこれから話す相手に言える、軽いジョークでもないかなと考えていた。

 最後の角を曲がって暗い廊下に踏み込んだ時、自分の意識が小さく警鐘をならす。しまった…思った時はもう遅い。ほぼ忘れかけていた、あの場所に、僕は再び踏み込んでしまっていた。


 赤い光の中に浮かび上がる、ぐったりとした生気のない体が5体。2体は床に倒れている。手は助けを求めるかのように、力なく前に伸ばされたままだった。ひっという声が僕の喉から漏れ、僕は立ちすくんだ。

 その時、何かが僕の袖を引っ張った。反射的に振り向く。そこにいたのは、キツネの面をつけ、丈の短い絣の着物を着た、ぼさぼさ頭の小さな子供だった。膝が音を上げ、僕はそこに崩れ落ちた。慌てて床を蹴りながら、背中が壁にぶつかるまで後じさる。

 キツネ面の子は足も動かさずに、すっと僕の方に寄って来くると、僕の目の前で面を取る。生気の無い瞳と視線があったような気もするし、その子の顔は見えなかったような気もする。実際のところ、そもそもその子にちゃんとした顔があったのかも怪しい。

 子供は、血にまみれた傷だらけの青白い手で、手にした面を僕に被せた。僕の鼻腔に腐った卵のような臭いが充満する。助けて…苦しいよ…助け…頭の中にか細い声が響き、細くくりぬかれた目の部分から見える世界が真っ赤に染まる。僕の記憶はそこで途切れた。


 どのくらいそこに倒れていたのかはわからない。次に気が付くと、呆れたような夏南さんの顔が覗き込んでいる。「こんなところで朝っぱらから昼寝?」僕のぼんやりした頭が少しずつハッキリしてくる。「キツネが!!…子供が!!」僕は叫ぶと跳ねるように起き上がり、顔に手を当てて辺りを見回した。被せられたはずの面はどこにも無かった。

「あれ…?」夏南さんは、不思議そうな顔をした。「調子が悪いんなら、帰った方がいいわよ」「い、いたんです。5人。生きてんのか死んでんのか…」夏南さんの表情が少し険しくなる。「そ、それで、子供が、キツネの子供が…あ…」僕はポケットからスマホを引っ張り出した。時計が8時7分を告げていた。「あああああ8時過ぎてる!すみません、また後で!」

 何があっても、仕事優先の日本人のメンタルって凄いよな。自画自賛しつつ、僕は10分近く待たされても嫌な顔一つせず、僕の気を紛らすような開幕ジョークを飛ばしてきたパーカー・エヴァンズと、無事にスカイプコールを終えた。


 数日後、廊下ですれ違った夏南さんに呼び止められた。どうやら次の週末、お坊さんが来るらしい。「私も良く知らないんだけどね、なんかあったらしいのよ、ここ。」聞けば戦時中に酷い事故があり、6人の犠牲者が出たらしい。

「戦争で記録がほとんど焼けちゃったらしくてね、古い新聞記事が一つ残ってただけだから、詳細はわからないんだけど」新聞に載せられていた犠牲者のうち1人が、狐井幸吉という小さな子供だったと夏南さんが言った。それからのごたごたで、色々な事がうやむやになって、ちゃんと弔ってももらえなかったのかもねと、夏南さんは肩をすくめた。


 お坊さんが来て供養してくれたのち、会社が引っ越すまでの10年近くの間、妙な事は二度と起こらなかった。やはりちょっと気になって、僕も色々調べてみたが、夏南さんが教えてくれた事以上の情報は、まったく見つからなかったので、なぜ狐井幸吉がここで事故に巻き込まれたのかもわからない。

 まあ、二度と会わなかったから、ちゃんと成仏はできたのだろう。僕はそれでよしとすることにした。

うちの職場の建物が、100年前に建てられたとかで、同僚となんかいてもおかしくないよなと、いつも話しているのです。あまり微に入り細を穿つと、自分がトイレに行けなくなるので、表面を撫でる程度になりました。

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