名前
名前とは、突き詰めて云えば個体を識別、区別為る記号である。田中一郎は田中次郎では無いし、山田一郎でも無い。尤も田中一郎と田中一郎は区別が付かないのであるから、田中の両親は何とか子孫を分かり易く為たい。其れは親愛であったかも知れないし、矜持であったかも知れないし、文化であったかも知れないけれども、両親は一男と命名為る。田中一男の誕生である。田中一郎と田中一男は区別為れ得た。
山田の両親は考えた。一人目の男子であるから一郎とは安直であろうか、長男には家系を牽引為て貰いたい。然様な男子には勇敢が肝要であるから勇雄と付けよう。山田勇雄の誕生である。
此の様に為て、日本に於ける名前と云う物は識別と意義の分野から細分を濃やかに為て行くのであるけれども、昨今の名前と云う物は一周為て一郎よりも淡泊な記号化を起こして居るのではないかと私は思う。
前述為た様に、日本人の名前には二個の方向が有る。識別と意義である。但し、基礎に在る要素は識別である事を忘れては好けないと同時に、意義を失った名前は記号であると云う事を私は主張為る。例えば日本の男子にホフベーニッツァポポヘクイスと命名為れば、識別為れる事に疑いは無い。名前を覚えて貰わずとも、何だか名前の無暗に長い男子と為て、名前が覚えられなくとも識別為れよう。然し乍ら意義はと問われると、特別に何か有る訳でも無い。例えば日本の女子に美優強柔和正巧長子と命名為れば、此れも復た画然と区別為れよう。意義は美しく優しく強かで柔和な正しさと言葉の巧さを以て長い生涯と為て欲しいと云う物である。然し乍ら斯様な女子が居るだろうか。苟も居たと為て、斯様な名前が付いた瞬間に然う宿命を与えられた者であろうか。即ち、先ず過ぎたるは及ばざるが如しと為て、ホフベーニッツァポポヘクイス君と同様に、何だか大仰に漢字が並べ立てられた女子と為て識別為れるのである。美しく優しく強かで柔和な正しさと言葉の巧さを以て長い生涯の女子と為てではない。
私が挙げた様に外見から極端である名前は何れも識別こそ為れるけれども、意義の方は殆ど無いに等しい。此処に昨今の名前が関わって来るのである。端的に云えば名前の意義が大仰で、一周為て記号に成り下がって居るのである。若しくは、最初から記号でしか無い名前なのである。万能と云う名前の人間が居て、果たして万能であろうか。一人の個人が万能を謳うのは余りに大望であり、掛け離れ、万能君が万能であるか何うかは関係が無い。万能君はバンノウ君と為て識別為れるのである。
最近は識別へ識別へと命名が尖って行き、或いは意義へ意義へと研いだ結果と為て識別へ貫いて終う。斯う為って終うと、彼氏が！さんで、彼女が？さん、此の人が％さん等と紹介為れて居るのと大差が無いのではないか。折角の名前が勿体無いと私は思って居る。日本に於ける名前には意義の方向が有る。私の名前は俊一と云う。母の曰く、一つでも俊れた能力が有る様にと云う意味である。識別と意義の含有は此の程度で良い。此の程度を詳細に定義為る事は難しいけれども、私の言わんと為る事は分かって貰ったであろう。
私は俊一であって、シュンイチでは無い。況してホフベーニッツァポポヘクイスでは無いし、美優強柔和正巧長子にも非ざれば、万能とも違うのである。
両親に於いては、子供に記号では無く、名前を付けて上げて欲しい物である。
