こんなところで死にたくない
あの10時36分の世界から一週間後。
桜山周子が消えた瞬間から、自分の日常はあまりにも平凡に過ぎ去っていた。自分はいつもどおり、ぼっち大学生として淡々と講義をこなす。あの日のことは夢だったんじゃないかとぼんやりと思いはじめていた。
1月終わりの冷たい風が肌に染みる。
空は澄んだ青。雲ひとつない。
俺の実家は埼玉県の小さな町にある。御社町。都心へは1時間半程度の時間で行ける。田園風景が広がるのどかな町だ。霜ばしらをザクザクと踏みつけながら徒歩10分の駅に向かう。今日乗るのはあの日と同じ時間の電車だ。
あの日とは違う気持ちで電車に乗り込む。
電車に原因があったのだろうか。電車内をいつもより注意深く観察したが、特筆すべきことは何もなかった。
神保町駅まで約1時間。
電車の席に座ってしまうと、効きすぎた暖房のせいでついウトウトしてしまう。
今日こそ寝るものか。
しかし電車の揺れの心地よさと外気よりもはるかに暖かい車内が眠気を誘う。
今日は寝るものか。
意思に反していつのまにか自分の意識は、ふわふわと漂う車内の日差しにとけこんでいった。
気がつけば曇天の空。
足下には東京の街並み。
背中にはカラスのような黒い羽。
「あの」世界に迷い込んでいた。
また来てしまった。
ここはやはり夢の世界だったのか。
電車で寝るとここに来てしまうのか。
しかし、夢にしてはおかしいことがたくさんある。
左腕の傷はまだかさぶたとなって残っている。さらに前回は自分の体は電車内から神保町まで移動していた。この2点から夢の中ではないことの証明にはならないか。
桜山周子の仮説のとおり、なにかの条件で来てしまう世界なのか。
スマホの時計を確認する。10時41分。
前回は10時36分の世界だった。5分進んでいる。どういうことだ??
桜山周子は。
彼女に会えるかもしれない。
会って聞きたいことがたくさんある。
たとえ彼女の話す仮説が、真実とは違ったとしても。
桜山周子は一週間前、神保町交差点にいた。
再び自分は桜山周子と最初に出会った場所に舞い戻る。
赤い餓鬼が人影のように消えては現れている。
桜山周子の姿はなかった。
餓鬼たちは空を飛んでいれば襲ってくることはない。
自分はこの曇天の街を上空から観察することにした。
前回はなぜ、10時36分の世界から日常に戻れたのか。
駿河台下交差点の殺人事件は何か関係があるのか。
赤い餓鬼と黒い鬼の正体は。
自分の力は一体どこからくるエネルギーなのか。
自分の姿は一体誰か。
知りたいことは山のようにある。
神保町の上空を一周回った。金髪の少女がいないか、建物と建物の間まで丁寧に探す。しかし、桜山周子はどこにもいなかった。試すべきことをすべて失った自分は、駿河台下交差点にあるビルの上で瞑想をすることにした。
突然現れた黒い金剛力士像のような鬼。
駿河台下交差点での殺人事件。
駿河台下交差点での出来事については、ひとつの仮説は簡単に立つ。
あの10時36分の世界に、本当は山之内書房に殺害された女性店員ががいたのではないか。
自分たちが行った時は、女性定員はなんらかの理由で隠れていた。
その後、黒い鬼によって女性店員は殺害された。その後世界が元に戻った。
ツギハギの推理で、まったく自信はない。しかし、誰かの死によって世界が元に戻るということは、ありそうな仮説だ。
それとも、もしかしたら山之内書房店員の殺害事件は無関係で、一定時間を過ぎると元の世界に戻るのかもしれない。
いま言えることは、すべての可能性は確証のない仮説に過ぎない。
もし、誰かの死によって元に戻る世界ならば。
もしかしたら、桜山周子はすでに死んでいて、この世界に取り残された存在なのかもしれない。そして、次に死ぬのは……?
「勘弁してくれよ、こんなところで死にたくはないぞ」
つい、独り言をつぶやいてしまう。
時を待つ。
しかし、時間は無為に過ぎるばかりだった。
もし、誰かが死ななければ元の世界に戻らないのだとしたら。
次は、自分かもしれない。
急に背筋がぞくりと冷える思いがした。
死への恐怖が溢れる。
自分は死にたくない。
死とは自分の意識がなくなること。
死とは。
「怖いか」
地面の底から唸るような声が聞こえてきた。誰だ?
「俺は、お前だ」
自分の陰が立体的になる。陰はまるで水銀のような液体の塊となり、やがて人の大きさほどの青い蝋人形になる。
目も口も鼻もないツルツルとした青の蝋人形が眼前に立つ。まるで悪夢だ。
青の蝋人形は、はっきりと語りかけてくる。どこから音を出しているのか、精神に直接響かせているのかはわからない。
「そんなに死が怖いのなら、手助けをしてやる」
蝋人形の右手から青の大剣が出現する。
見覚えのある大剣。自分が出現させた大剣とまったく同じだ。
蝋人形が自分に向かって青の大剣を振り下ろす。
こいつが死神で、自分は死ぬのか。
いや、自分は死ぬわけにはいかない。
自分の黒い翼を広げて、宙を舞う。大剣そのものを避けても、青の波動が空を切って襲ってくる。ギリギリのところで蝋人形の攻撃をかわした。
「教えろ! ここはどこだ。お前らは何者だ。何のために戦う?」
「俺はお前だ。俺はお前の死だ」
自分が翼を使って逃げようとすると、青の蝋人形もまた背中から青の翼を生やして追いかけてくる。
蝋人形は大剣を振り回して空を切り三日月状の青い波動をとめどなく繰り出してくる。
空中で背中を取られた形の自分は防戦一方だ。
蝋人形の背を取ろうと回り込もうとした瞬間、刃のような青い衝撃を身体に受けてしまった。
いってぇ……
どこかのビルの屋上に叩きつけられる。
蝋人形を破壊しなければ、殺される。
一体なんなんだよ。
こんな鬼みたいな世界に2度も連れてこられて。
姿は変わるしわけわかんないしこえーし。おまけに、こんなところで死ぬなんて。
桜山周子。
お前は一体どこにいる?
知りたい。
これがなんなのか、ここはどこなのか。なぜか。知りたい。
自分には知る権利がある。
死ぬわけにはいかないんだ。
理不尽に対する怒りが全身を支配する。
自分は自分の腹の奥から気を発し、それは自分の言葉となって自分の耳に届いたものとなった。
「坤を地と為し母と為し、僎を木と為し風と為す。破!」
蝋人形はいつのまにか消えていた。
自分は何を言っているのか。
この力はなんなのか。
いま考えても、答えは出ないだろう。
いま言えるのは、気を発したことで、気持ちの悪い青の蝋人形を倒した。そして、死への恐怖が薄れて思考が少しだけ前向きになった。
ウダウダ考えても仕方がない。
自分の目的は桜山周子を探すこと。
東京の街をシラミ潰しにでも探そうと心に決めた。たとえ徒労に終わっても。
その時、どこからか視線を感じた。
母校である治明大学のビル。
桜山周子とも訪れた場所だ。
なぜか誰かによばれているような、そこへ行かなければならない気がした。
視線の主はもしかして桜山周子だろうか。
行かない理由なんてない。
大学へ向かって翼を広げた。
餓鬼は存在するが、もう襲ってこなかった。恐れなければ、極めて無害だということがわかった。
赤い餓鬼達は人影のようであった。
この変化はなぜか。
正面の玄関から堂々と大学へ入る。
入口の自動ドアを開けると、ロビーの中央に男が立っていた。
桜山周子ではなかった。
「よっ! さっきの戦い、見てたぜ!」
気安く話しかけてきたのは同年代の男だ。まず目に入ったのは特徴的な白い髪。老化による白髪ではなく艶やかに光る白銀だ。瞳は黄金、コンタクトレンズだろうか。そういえば桜山周子も奇妙な色をしていた。服装は黒のライダージャケットにスキニーパンツ。細い体にフィットしていてイマドキの大学生だ。コミュ障ぼっち気質の自分は、まず友人にはなり得ないグループの男だ。
「キミ、召喚獣かなんか? 妖怪? なら、俺と契約してよ!」
何かのゲームと勘違いしているらしい。自分は今たしかに安いスマホゲーのキャラクターに居そうな格好だ。仕方ない。
相手はもしかしたら、味方ではないかもしれない。警戒心を与えないように、しかし自分も緊張感を失わないように答えた。
「勘違いしないでくれ。自分はもともとここの大学生で、この世界ではなぜかこの格好になってしまうんだ」
「へえ」
イマドキ男子は好奇の眼差しでこちらを見つめてくる。そういえば桜山周子は初めて自分と出会ったとき、最初から自分を人間としてあつかっていた。なぜだ。
「さっき戦ってたやつはなんなの?キミ、必殺技使えるみたいだけど」
「わからない。自分の陰がいきなり怪物に変化して襲ってきたんだ。殺されそうになったから無我夢中で気を発していた。力のことはよくわからない」
「ふーん、キミって悪い奴? ではなさそうだけど。キミの目的は?」
「元の世界に帰ること、それから、ある女の子を探している」
「女の子?」
「金髪の14歳の女の子だ。知っていたら教えてほしい」
「いや、俺がこの世界で出会った知的生命体はキミが初めて。でも、俺もその女の子のこと、知りたいな。キミの言う元の世界って、えーっと、豊かだけど閉鎖的でツマラナイ少子高齢化泥舟日本の話だよね?」
「たぶん同じだ」
「そっか〜〜! よかった! 同志だ! 誰も居なくて辟易してたんだよね! 協力しよ! 早くこんな世界から抜け出そうよ! 一人で大学に避難するのはもうこりごり!」
「外は餓鬼だらけだしな」
「そうそう、嫌になっちゃうよ!ま、ちょっと叱れば消えてくれるんだけどね、あいつら」
「叱れば消える?」
「消えろ! って言うと消えるよ。あの気持ち悪い奴ら。この世界ってさ、言ったことが実現する世界ってことで合ってる?」
「言ったことが実現する? いや、自分はそんな覚えはないが」
「そうなのか、じゃあ偶然かな。
『消えろ!』って言えば餓鬼は消えるし、『美味しいカレー食べたい』って言ったら学食のカレーにありつけた。
それに『誰かいないかな〜』って呟いたらキミがきた!
今のところ叶ってない願望は、『お家に帰りたい』くらいかな!
いまのうちに宝くじに当たりたい!って言っておこうかな。あ、でも宝くじ売り場がないか!」
白髪の男が早口でまくしたてる。
そういえば、自己紹介がまだだ。
「自分の名前は榎元春人。榎元は木に夏にゲンの元。季節の春に人で春人。」
「俺は浅野白秋。(あさのはくしゅう)浅野内匠頭の浅野に北原白秋の白秋。春人、腹へってない?学食でカレー食べない?」
「朝から何も食べてない。腹減った。そういえばこの姿で飯食ったことない」
「まじか。妖怪の姿でもカレーくらい消化できるっしょ。学食行こうぜ!」
白秋と一緒に大学17階の学食でカレーを食べた。
こちらの世界のカレーもちゃんと美味しかった。