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桜山周子の仮説

  夢の世界の神保町にある喫茶店さぼるる内にて。姿が変わってしまった自分は窓の前で呆然と立ち尽くしていた。

  オタサーの姫は冷蔵庫からオレンジジュースを取り出してコップに注ぐ。彼女はそれを自分の前に、コトリと置いた。

  自分は動揺を落ち着かせたくて、姫が淹れたオレンジジュースを一気に飲みほした。


「本題に入ってもいい?あなたのリュックサックに、これと似たようなものは入っている?」

「……?」


  オタサーの姫はうやうやしく白い手袋をつけた。そして女の子らしいファーのショルダーバッグから茶色い物体を取り出す。それは古びた細長い木の板。墨で文字が書かれている。墓地にある木の板、たしか卒塔婆と言ったはずだが、それによく似ている。しかし卒塔婆よりは短く、小学生の頃よく使った30センチの竹の定規を思い出した。


「自分は持ってないぞ」

「リュックサックの中を見せて」


  オタサーの姫にくたびれた黒いリュックサックを手渡す。自分の持ち物は、財布、スマホ、パスモ、今日15時までに提出するレポート、それから進級時に買わされた教授の本だ。古びた木の板なんて持っているはずがない。


「これね」

「えっ、なにこれなんでこんなものが俺のリュックに?」

「わたしと同じだわ。わたしの仮説を聞かせてあげる。この世界に来てしまうのは、これのせいね」

「は?自分、こんなもの入れた覚えないんだけど」


「あなたこれが何か知ってる?」


「おいおい、あんたが話を聞けよ。卒塔婆っぽいけど……、もしかして、墓地にある呪いの板?……なんて冗談だけど」

「さすが平凡な回答ね。でも当たらずとも遠からずってところね」

「なにひとりで完結してるんだよ。あんたの仮説とやらをわかりやすく説明してくれ」


  オタサーの姫が一呼吸置いた。黄色い瞳が自分を射抜く。


「これはね、古代中国の墓から出土した竹簡よ。そして、おそらく春秋戦国時代の失われた思想書『鄒子』の一部」

「ん?なに?すうし?よくわからん」

「これは現代には残されていない中国の未発見の書物ってこと」

「は?なんで昔の中国の物が自分のカバンに入ってるんだよ。それに、あんたも持ってたらまずいだろ?ここは日本だぞ?妄想は夢の中だけで勘弁してくれ」


  って、これは夢の中か。ツッコミもできない世界なんて生きづらい。本体の自分はおそらく熟睡していていまどこにいるのか知らないが、目が覚めるまで付き合ってやる。


「あくまでも仮説だけど、古代中国思想に関しては日本にも需要があるわ。闇のルートに乗って、中国本土から取引きされたものかもね。中国では盗掘は昔から盛んだったし、近代まで管理もずさんだった。例えば、1972年の中国の銀雀山で貴重な竹簡が見つかったのだけど、希少性を認識されずにしばらく水に浸かってたのは有名な話。まぁ、それも何十年も前の話で、いま中国本土から出土した遺品を日本に持ち込もうとしたら大変だけどね」


  なるほどよくわからん。


「これがその、す……なんとかっていう書物の一部だと、なんでわかったんだ」

「読んだからよ。あなたはこれ、読める?漢文は高校の時に習ってるわね?」


  竹の板を見る。漢字らしき文字が並んでいる。ハンコや書道でよく見る文字の形だ。政治経済学部の自分は、もちろん読めるわけがない。


「いや無理でしょ」

「これは五行について書かれている。中国の戦国時代で活躍した思想家である鄒衍。『史記』にその名は残っているわ。まあ詳しい説明はいまは置いておくとして、まずはわたしの竹簡を読むわよ」



『土、その本性は稼穡。至柔にして動くや剛なり。至静にして徳方なり。天に承けて時に行う』



「そしてあなたの竹簡。白文を即興で読むから、間違えていても勘弁してね」



『木、その本性は曲直。坤を地と為し母と為し、撰を木と為し風と為す』



「それで、なんでこれを持っているだけでこんな……夢の世界に来ちゃうんだよ」

「そろそろ、夢じゃないって自覚したら?あくまでも仮説だけど、この竹簡が五行の結界を開ける鍵になってる」


「鍵?」


「『鄒子』という書物は失われたけど、五行の考え方はまだ現代社会に生きている。五行による結界は、東京にも張り巡らされているわ。平安時代に、陰陽師が京都に結界を張っていたのは知っているかしら」

「漫画で読んだことはあるけど詳しいことは知らん」

「陰陽師の術も、根本をたどれば五行思想にたどり着く。東京の結界と、この竹簡が交差して、わたしたちだけこの曇り空の平行世界に迷い込んでしまった。説明をだいぶ省略してるけど、わたしの仮説はだいたいこんなところ」


「よくわかんないけど、この竹簡とやらのアイテムのせいで、このわけのわからない世界にあんたと自分が迷い込んでしまった……と」

「あくまで仮説だけどね」


「それで、なんで俺はこんな格好になっちゃったんだよ」


「そうね、心当たりはあるわ。でも不確実な記憶だから、神保町の古書店へ行ってもいいかしら」


「ま、いいけど……、それで、この世界が夢じゃないと仮定して、どうしたら出られるんだ?」


「知らないわ」


「は?」


「わたしがいま立てられる仮説はここまで」


「は?それでどうすんの?この状況」


「だから知らないわ。考えるしかないわね」


  喫茶店さぼるうの店外を見る。赤い鬼がウゴウゴと歩いている。餓鬼達は当てもなく彷徨っているような足取りで、酷く気持ちが悪い。しかも存在がぼんやりとしていて、居たと思ったら居なくなっていて、存在と消滅を繰り返している。やっぱりどう考えてもここは夢の世界だ。夢であれ現実であれ、こんな世界とは早くおさらばしたい。

  オタサーの姫はオレンジジュースを飲みながらなにかを考えていたが、再び語りだした。


「そうね。五行思想は木、火、土、金、水で構成されている。これを読むと、あなたが木でわたしが土。もしかしたら、残りの竹簡を持った人が同じようにこの世界に迷い込んでいるかもしれない」

「自分たちのほかに、人間がいるかもしれないってこと?」

「探してみる?」

「もちろん」


  今日のレポートの提出期限は15時。時計の針は10時36分で止まっている。まだ時間はありそうだ。

  そうだ、その前に。


「自分の名前は榎元春人(えのもとはると)。漢字は木に夏にゲンの元にハルのヒト。あんたは?」

「春人ね。わたしの名前は桜山周子(さくらやましゅうこ)。桜の山の周りの子」


「桜山周子さん」


「謎解きはわたしがやるから、襲ってくる奴らは、全部春人がやっつけてね」

「はいはい」

「まずは、山之内書房か東方書房へ行くわ。『史記』『淮南子』『漢書』あたりを集めておきたいわ。山本書房や原書店へも行きたいけど交差点を渡るのが面倒ね」


「……ってかさ、スマホで調べられないの?そういえば、スマホって繋がるんだっけ?……あ、自分のは動く。でもネットはダメか」

「わたしのも同じ。動くけど圏外」

「ってそれ、ガラケーじゃん!しかも子ども用?あんた大学生っしょ?」

「家庭の事情。それより、必要な時以外はスマホの電源を切っておいて。この状況で充電なんてできなさそうだから」


  周子の言うとおり電源を切る。電源を切る前にスマホの時計表示を確認するとやはり10時36分で時が止まっている。

  このリアルな感じ、もし夢だとしたら、自分の脳みそも捨てたものではないのかもしれない。


「とりあえずここを出るわよ。移動中はよろしくね」

「はいはい、わかりましたよ、お姫さま」


  第一の目的地はナントカ書房。その間、イケメン妖怪の力で周子を護衛する。


  行きたくないけど行くしかない。

  自分はこの世界から抜け出す。

  そして自分は期限内にレポートを提出する。


  喫茶店の扉を押すとカランカランと良い音が鳴った。

  この音は同時に、餓鬼との戦闘の合図だ。


  この時は、この10時36分の世界があれほど自分を苦しめることになるなんて知らなかったんだ。

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