5-獣
柳原の個展はほんとうにこじんまりとしたもので、画材屋の二階にあるさほど広くはない画廊を借りたものだった。野の花のある風景。きれいな写真だなぁとだけ思って見ていたが、よく見るとそれらは被災した町を背景にしていた。どこだかわからないほど姿を変えてしまった瓦礫の広場に咲いたたんぽぽの花弁。なんとか持ちこたえたらしい駅前のビルを背景にベニバナの群生。打ち上げられた船の手前にハマボウフウの花びら。一本だけ生き残った桜から散っていく花吹雪。慰霊碑に捧げられたバラの花束。廃墟の中では健気に、復興をはじめた町では誇らしげに咲く花を切り取った写真を眺めていると、日常と非日常の間を振り子のように行き来しながらも、ひと振りする度に前に進んでいく命のたくましさを感じた。
「仕事もなかったからね、あのときの様子はたくさん撮ったんだ。そんなもの人に見せるものじゃないと思っていたんだけど、こういう写真ならどうだろうと思ってな」
いや、いまだから見たいことってあると思う。忘れてしまうべきことと、忘れてはいけないことがあるような気がする。忘れてしまおうとしてきた。怒ってもしかたがないし、泣いても取り戻せない。それならなかったことにして淡々と生きていくかない、いまここで。だけどほんとうはなかったことにしてはいけないこともあったのではないかしら。うまく言えないけれどそう思う。柳原がそんなことを言ったのではないけれど、きっと感じたことは同じなんだと思う。
個展をきっかけに柳原からの誘いで頻繁に会うようになった。生徒と教師という立場ではなくなってみれば、昔は過ちとされたことが実はそうではなかったのかも知れないと思えるようになった。いまの自分の前に柳原が現れたことは、ほんとうに神様の仕業なのではないだろうか、もやもやとくすぶっている気持ちを前に進めるために柳原は現れたのではないだろうかと思えてくる。あの頃教わったことは少しだったけれど、コマ割りとかネームとか役に立つことも多かった。いまからでも本気で教わったらなんとかなるかもしれない。もう一度柳原の懐に飛び込んでみようか。会社か漫画か、柳原なら答えを出してくれる。美咲が自分では決められない答えを。
「ねぇ、また画を教えてくれるって言ったよね」
馴染みだという居酒屋で二杯めのビールを注文し終わった柳原に切り出してみる。
「ああ、言った。いつでもおーけーだ」
「わたし、プロの漫画家になれると思う?」
「んー。いまどんなの描いてるのかなぁ。見せてもらわないとね」
「見せる。今度持ってくる」
美咲と再会してからの柳原はもう髪を短く刈り上げて髭もなくなって若々しく見えた。美咲とはおよそひとまわり違う年齢だが、それほど離れているようには思えない。そんな男が美咲の話を真剣な顔をして聞いてくれると頼もしく思えてくる。だが柳原の本性が昔と変わっていないことは次の言葉でわかった。
「それよかさぁ、君の部屋に……行こうよ。な、な、それがいい。そうしよう」
柳原の指が伸びて美咲の指先に触れてくる。引っこめるとまた伸びてきて今度は手の甲がくすぐられる。
「あ、でも。家には将生がいるから……」
「誰? え? 将生? なんで」
「だから家に来るのはちょっと……」
柳原は眉を寄せて首を傾けながら言った。
「じゃ、じゃぁな、俺んちでもいいぜ。来いよ。な、な、いまからどうだ?」
柳原の頭の中でスイッチが入った。あのときみたいに。美咲を見る目、額に滲んでいる汗、男の息。すべてが一瞬にして獣じみたいやらしいものに変化するのを見た。
「柳原先生。今日はやめてください。わたし、もう帰ります」
柳原は結局アパートまでついてきた。途中でなんども追い返そうかと思ったけれども、そんなことをして指導を受けられなくなるのも困る。なにがどうであれ美大を出ている先生だ。力になってもらえることは間違いないはずだから。
「ごめん……変なこと言っちゃったかな。でもほんとに絵のことなら任せて。いつでも力になってあげる」
大人気なく舞い上がってしまったことに気がついたのだろう、柳原はアパートの階段のいちばん下にまともな言葉を置いて大人しく帰っていった。