3-コブタの嫌がらせ
「美咲! ちょっと、美咲!」
耳元で誰かが呼んでいる。くの字に折れていた首をさすりながらゆっくりと目を開く。
「美咲、あんたなにしてんの。また居眠り?」
隣席の真実が美咲の肩をぐらぐら揺すって起こしている。手の甲で口元をぬぐって灰色の事務机から上体を起こす。
「また、夜半まで漫画描いてたんでしょう」
寝ぼけた顔を振り払いながら頷く。
「寝不足だから眠~い、仕事ができな~いなんて、最低!」
コブタ体型の真実は美咲よりも年下のくせにエラそうに小言を言う。
「仕事がいやなら、下手な漫画でも描いて食ってけば?」
コブタの嫌がらせがはじまった。
「真面目に仕事しているこっちはいい迷惑よ。あんたの鼾がうるさくって」
「イビキ……?」
「いい歳してさ、いまから漫画家になれるなんて、本気で思ってるんじゃないでしょうね」
最初はいい友達だと思っていたのに、真実は口も性格もどんどん悪くなってひどいことばかり言う。
「前に見せられたあんたの漫画」
「え?」
そういえばまだ仲良しだと思っていた頃に描いたばかりの作品を真実に見せたことがあった。
「ちょっと画が上手いからって、漫画家気取りになってるのかもしんないけど……」
あのときは面白い、いいじゃないこれって褒めてくれた。
「あの暗い絵。なんとかなんないの? いきなり人が死んだりおぼれたり。ホラーかよ。経験談だかなんだか知らないけどさ、あんなの読みたい人なんていないよ。辞めたら? 漫画なんて」
「なにを辞めるんだ?」
いつの間にか課長が横に立っていた。真実は課長には聞こえないように「ちっ」と舌打ちして仕事に戻った。美咲も慌てて机の上の伝票に目を向けるが、数字なんてちっとも頭に入ってこない。書類の束とパソコンと電卓。ここでわたしにできることといえば、毎日机の上に降り積もる数字やメモを機械の中に打ち込んでいくことぐらいだし、これでご飯を食べることができるのだからこんなありがたいことはないはずなんだけど。
「ちっとも捗ってないじゃないか。いつまで同じことをやってる。派遣会社はどうなってるんだ。もっと有能な社員を要求したつもりだがな」
ねちねちしたいびりは課長の趣味みたいなものだ。だから聞き流しておけばいいのだけれど、いまの美咲には課長の言っていることが正しいと思える。
「いつ辞めてもらってもいいんだよ、やる気がない人にはね」
いつ辞めてもいい。いつでも辞められる。課長は席に戻ったが、言葉だけが残った。いつまでこの仕事を続けるつもりなのだろう。これがわたしのしたかったこと? そんなわけはない。生活のためには仕事をしなくっちゃ。なら好きな漫画で食べていけないものなのか。そうしたいけど漫画の世界ってそんなに甘くないってこともわかってる。伯父は許してくれなかった。死んだお前の両親なら絶対許さないだろうって。ママはわたしの画を認めてくれた。でも父は反対したかもしれない。漫画家になりたいなんて、まともな親なら許さない。……また考えてしまった。こんなときにいなくなった人を憶うなんて。パパとママが流されたってことをだいぶ後から聞かされたそのときにはなにも感じることができなかったのに、長い時間が過ぎてから地下水が染み出してくるみたいに、水蒸気が集まって積乱雲を作るみたいに、沈殿した父母の思い出が眼球の裏に浮かび上がる。もう五年も経ったのに、まだ終わったことになっていない。
仕事帰り、気晴らしに新しいペン先でも買おうと画材店に立ち寄った。店内で物色していたら、後ろから背中をつつかれた。