1-大川
怪物みたいな波が空を覆い隠しながらみるみる近づいてくる。目の前にあった鉄柵に必死でしがみついていたわたしの手を掴んだ誰かはその反動で水に呑みこまれた。
平坦な道をママチャリが風を切って走る。頬を撫でていく生温い空気を何度も感じながらペダルを踏む足に力を込める。派遣先の会社まで自転車で二十分ほどを毎日往き来している。自転車が好きだからではなく、町を迂回するように走る路線バスだとかえって時間がかかってしまうからだ。きまりきった道が嫌で最初はいろいろな道筋を探してみたのだけれども、結局定規で描いたような直線の県道を行くのがいちばん近いとわかって無用な努力はやめた。朝は遅刻すれすれだから立ちこぎして懸命にペダルを踏み下ろすが、帰りは急ぐ必要はないのに家路を飛んで帰る。ようやく解放された時間を失いたくないからだ。だけどときおりまっすぐ家に帰らず大川の土手に寄り道する。将生がギターを抱えて来ているかもしれないから。
将生は来ていなかった。家でごろごろしているのだろう。美咲は土手に腰を下ろしてとりとめのない時間を過ごす。土手の真ん中あたりがちょうどいい勾配になっていてそこに背をあずけて斜めに寝転がるといい按配で空が広がる。びっしりと養生された芝が青い香りを放っていて服の中にまでしみ込んでくる。日の長い季節には夕方になってもまだまだ昼の光が半袖の腕や顔にあたたかい。河川敷で練習している野球少年たちの掛け声がひょーひょーと鳴く鳥の声とまじりあってなんともいえず眠気を誘う。目を閉じてしまうとそのまま眠りこけてしまうに違いない。ほどなく背を低くした太陽が薄雲の肩のところから見下ろしながら赤や黄色、橙、紫、群青色など微妙な色合いに空を染めていく様子を眺めてぼんやりする。なんとなく実家近くにあった海沿いの堤防に似ていて、仕事帰りの夕方や日曜日の午後を過ごしていると昔に戻った夢を見ているようだ。
ひとつ違いの兄将生とは堤防でよく遊んだ。中学に入ると将生はギターを持ち出して堤防で弾いた。一緒にいると軽薄な若い恋人同士と思われそうで少し恥ずかしかったが、ギターの音色が引き留めた。毎年行われる高校の文化祭ではなにかしら自作の歌を携えてステージに上がる兄への手紙を、ミーハーな女子からよく預けられた。それほど上手だったのに、もう長いこと将生が奏でる弦の音を聴いたことがない。
なんでギターを持ってこないの? 将生に訊ねてみる。
なんでって、ここは案外遠くて大変なんだ。それに……
それになに?
知ってるだろ、ギターはもうない。あのとき流されちまった。なにもかも。
……あれ、そうだった? ……また買えばいいのに。
買えばって……俺、金ねーの知ってんじゃん……てか、お前買ってくれよ。
なんでわたしが。自分で買ってよ。
そんなこと言わずに。兄思いの妹だろ?
その手には乗らない。昔から兄は妹に取り入るのが上手いし、妹は乗せられやすい。
わたしだって貧しいんだから。働け、マサキ。
そんな暇ねーし。
なんでよ。どこが忙しいのよ。
ギターの練習に決まってるだろ。俺、プロになるんだから。
それ、おっかしいんじゃないの、ギターもないのに。
ギターは……俺のここんとこにあるんだよ。メロディも歌詞も全部。
額のあたりを指さしながらどや顔をする将生に、美咲は口をとがらせて応戦する。
へんなの。ギターもないのにプロになるだなんて。
お前にはわかんないさ!
将生はいつもへんてこりんな理屈をこねて美咲をはぐらかす。でもそれが将生だからしかたがない。たった一人の家族なんだからわたしが応援しないで誰がする。困ったやつ! と、身体を起こす。そろそろ冷えて来るから帰るよと言い残して、土手を駆け上がり自転車のハンドルを握る。