レガロッタの森
魔女はヒトと必要以上に関わりを持ってはいけない。
お互いに寄り添うことは叶わないからだ。
魔女は悪者であり続けなければならない。
ヒトが持たない力を持って生まれてきたからだ。
しかし魔女はヒトを、そして彼らに関与するものを守らなくてはならない。
魔女という生き物には実に制約が多いものだ。
パタンと分厚い古ぼけた本を閉じ、ララは窓の外を眺めた。
世間からは魔女と、まるで異端であるかのように呼ばれてはいるが、本来は彼女たちもヒトと同じなのだ。
ただ少しばかり力を持ち、その力がある限りは生き続ける。
それを恐れたヒトがそういった者たちを魔術師、魔女などと称したのだ。
「モモ、そろそろハジュの実がなってる頃だよ」
ララは少しだけ窓を開け、一生懸命に何やら作業をしているふわふわした栗色の頭に呼び掛けた。
するとモモは土が着いた顔をララに向け、その瞳をきらきらと輝かせた。
ララがモモとこの森に住み始めてから何年経っただろう。
ミミが出て行ってから三十年だから、六十年ほどだろうか。
もういつの間にか何回目かの秋が来て、レガロッタの森は紅く色付いている。
この間、真っ白で大きな花をたくさん付けていたハジュの樹を、モモと二人で眺めながらふと思ったことがある。
もうすぐこの森から出て行かなくてはならない。
レガロッタはとても住みやすい森だ。
時間に逆らうこともせず、四季によって姿を変える森。
薬草だって必要なものは全て揃うし、川の水も澄んでいる。
だけど、ララはもうすぐここを出て行かなければならなかった。
三十年前にミミがそうしたように。
ララの母親はヒトではない。
西方の地で山岳から注ぐ川に住むニンフだった。
その姿はこの世の者とは思えないほど美しかった。
透き通るように白い肌に金の長い髪、晴天の空の色を映したような瞳。
そのニンフと恋に落ちたのがヒトである父親だ。
父はララに名を授けた。
もう今では名乗ることも呼ばれることもない名だが、ララにとっては宝物であった。
しかしヒトはヒトでしかなく、力をもつ彼女や母とは違って父は歳を取った。
いつまで経っても美しい母と子どものままのララ。
父は亡くなる前、同じ時を生きたかったと言っていた。
だからきっと魔女はヒトと関わるななんていう制約があるのだとララは思っていた。
父を亡くした悲しみに暮れた母は力を失い、後を追うかのように亡くなった。
それも気付けば百年ほど前のことだった。
母を亡くしてから一人になったララはその地を出た。
思いつくままに足を踏み入れた森でミミと出会った。
ミミは魔力が弱いものの、道具を創り出す才能を持っていた。
ガラクタのような物もいくつかあったが、それをヒトの街で売っては金貨で貧しい子どもに何か買い与えていた。
そんなミミがある日、街で見つけたのが孤児だったモモだ。
モモの両親はどちらもヒトだったが、いつまで経っても成長しない娘を気味悪がって捨てたらしい。
そして約六十年前の夏、三人はレガロッタの森に移り住んだ。
三十年が経った頃、ミミが東方にある常春のイェーダへうつりすむと言って出て行った。
ララよりもずっと年上で、力も弱いミミの力が衰えてきていたのにはある時から気付いていた。
しかし見た目はほぼ変わらないままだったミミにどこか安心していた部分はあった。
ミミは困ったような顔をしてララに言った。
『もうすぐわたしはヒトに戻れる』
それは魔女ではなくなるということだ。
生き物には全て寿命があるように、魔女であるのにもいつか終わりがくる。
それは魔女だけではなく、力を持って生まれた者は誰にでも起こる、とても自然な出来事なのである。
ミミの力が衰えてきたとはいっても、まだ魔女であって完全にはヒトでない。
その力を完全に失うまでは森でひっそりと暮らすつもりなのだろうとララ思った。
「ハジュの実はね、すごく苦いんだ。けど、心臓の病気によく効くんだよ」
そっと手を伸ばして真っ赤に色付いた実に触れた。
一つずつもいでカゴにしまうと、背の低いモモが覗き込んだ。
まるで妹というよりは自分の娘のようなモモが可愛かった。
親からの愛情を知らないモモだが、ミミにもララにもよく懐いたし、何でも素直に反応した。
そんな彼女を置いて出ていくのは忍びない。
だけど、ララの力はこれ以上増えることもなく、これから弱っていくだけなのだ。
レガロッタを出たら、まずはイェーダへミミに会いに行こう。
ララはそう決めていた。
そして自分で選んだ森に住んで、力が衰えるのを待つ。
ヒトに戻ってからどうするかはまだ決めていない。
ミミはどうするのだろうか。
もうすぐハジュの樹から葉が散っていく。
この森を白銀の雪が包んで、小鳥も虫も息を潜めてしまう。
冬はララにとって、失う季節だった。
父も母も冬に亡くしたし、ミミが出て行ったのも冬だった。
一度だけ抱いたことがある淡い恋心を失ったのも冬だ。
暖炉の前でモモが小さく蹲って暖を取っている。
このところララに背中を向けっぱなしなのは、そのことに気付いているからなのだろうか。
モモ、と幾分小さな背中に呼び掛けると、彼女はようやく振り返る。
「わたしはもう年だよ」
モモは首を傾げたが、それも仕方のないことだろう。
その目に映るララの姿は六十年前と何も変わらないまま。
母親に瓜二つだと言われるほどの美しい少女のままだった。
「もう、頭打ちになった。これからはきっと弱っていくばかりで、わたしはいつか魔女ではなくなる」
そんなことはないと言いた気に頭を振るモモ。
賢いこの子はきっと前々から気付いていたのだとララは確信した。
「わたしはレガロッタを出るよ。新しい森へ行く。モモだって、どこかへ行ける。いつでも会いに来ていいんだ、わたしにもミミにも」
宥めるように言うララに、モモはあまり納得がいかないような顔をしていたが、ゆっくりと頷いた。
いままで少し、この子を大事に甘やかしすぎていたかとララは苦笑した。
「大丈夫だよ、モモは賢いから」
背の低いモモをぎゅっと抱き締めて、耳元でそっと優しく囁いた。
いつかの日に自分の母がしてくれたように。
「さよなら、ララ」
穏やかな森の川辺に佇むその姿は相変わらずだった。
サラサラと風になびく長い焦茶色の髪を結い上げ、白く細い手には銀のジョウロが握られている。
ララに気付いたらしい彼女は笑みを浮かべながら振り返った。
「久しぶりね、ララ」
三十年前とほとんど変わらない姿のミミは若草色の瞳を細めた。
ヒトの見た目だけでいえば、ララの少し年上くらいにしか思えないだろう。
「元気だった?ミミ」
「ええ。モモは今日も来なかったの?」
ミミがこの森に住んでいるのは知っていたが、あえてモモは今までここを訪れずにいた。
自分を救ってくれた命の恩人であるミミに会いに行きたいとあのモモが思わない訳がないと思っていたが、案外あっさりと受け入れていたためにララは面食らったのだ。
今考えればそれはモモの強がりだったのだろう。
ミミからの質問にララは首を横に振った。
今回はただ会いに来ただけではないのだ。
「あの時のミミの気持ちが少し分かったよ。悲しいような嬉しいような、複雑な気持ち」
もっと早く魔力が減っていてくれていれば。
ある時、強く強くそう思っては、無意味なのを知っていて力を土や樹に封じ込めてみた。
あんなにヒトと同じ時を生きたいと思っていたのに、今ではそうでもない。
ララの言葉にミミは微笑んだ。
母とは種類が違うが、まるで樹々の精のように思える、どこかホッとするような美しさを彼女は持っている。
「多分ララはね、わたしよりもずっとずっと長生きするわ」
ミミが乾いた土にジョウロで水をやる。
すると何もなかったはずの土に幾つか芽が出て、そして見ている間に成長して花を咲かせる。
「この花もわたしたちも似たもの同士。少しだけ長く美しいままで居られる。だけど力を失うと一気に時が流れていくし、自分の姿が悲しくて恐ろしい」
自分の心を花に重ねたように、静かにミミは言った。
そしてエプロンのポケットから煌めく砂をひとつまみして花に振りかける。
花ははらはらと花弁を落とし、実をつけたかと思えば枯れた。
「もう数年でミミという魔女は死んでしまう。それからヒトと同じ時を何年か暮らして、本当の死を迎えるの」
「…それでも、モモは勿論わたしも生きている?」
「そうよ」
しゃがみ込んだミミは土の上に残されたピカピカしている大きな黒い種を拾う。
これをすり潰して他の薬草と混ぜればいい眠り薬になる。
ララは作業を続けるミミの隣にしゃがんだ。
「じゃあ、ミミが残した種はわたしが拾う。大事に大事に美しく育てるよ」
そっと手を伸ばして黒い種を一つ拾う。
土を払うように撫でれば、生命の呼吸を感じた。
「…そうね。わたしには、ララやモモがいるもの」
ララはカゴに種を入れると腰を上げる。
そんな彼女にミミは待ってと呼び止めた。
「ララ、これを持って行って。次はないかもしれないから」
エプロンの、煌めく砂を出した方ではないポケットからゴツゴツとした石を取り出したミミはそれをララに差し出した。
ララはその石を受け取ると、空に翳した。
「風見鶏の石?」
「ええ、原石だけど」
ゴツゴツとした中に光るミミの瞳のような色をした結晶が光を反射している。
風見鶏の石は、その持ち主の望む物の方向を示してくれると言われている。
原石とはいえ、その効果はそう劣らないだろう。
「ありがとう。大切にするね、ミミ」
ララは微笑んだ。
それに頷いたミミはさよならと小さな声で言った。
呪文を唱えると、ララの身体はイェーダから消えた。
これから住むのなら、冬の森がいい。
だけどミミやモモを忘れてしまわないように、季節を感じられる森がいい。
瞳を開くと白銀の世界が広がっていた。
ここへ来たのは初めてだが、ララはこの森の名前を知っている。
森自身が教えてくれたのだ。
「今日からお世話になるよ、フォミア」