55.マオと足湯と温泉まんじゅう
バスを降りると、途端に温泉地ならではの硫黄の匂いが鼻に届く。
さっきまで俺たちのいた、県庁所在地であるあの街からほど近い場所の、交通の便のいい温泉街ということもあって、平日にもかかわらずかなりの賑わいを見せていた。
そろそろチェックインできる時間だ。
俺としては、一旦荷物を預けて、ついでにスーツも着替えてから観光に繰り出したいところだが……。
「晃! あ、あれはもしや足湯というやつではないか!?」
マオは、予め付箋とマーカーを引いていた旅行ガイドブックを抱えて、既にはしゃいでいた。
……この空気を壊すのもなぁ。
宿に向かいがてら、めぼしいとこをついでに見て回ってもいいな。
「なら、まずは足湯浸かりに行くか?」
俺が提案すると、マオは喜んだように満面の笑みを浮かべた。
マオの頭に、生えていないはずの犬の耳がピコピコと動いているのが見えた気がした。
……実際生えてるのは角なんだがな。
今は隠してるから見えんが。
用意のいいマオは足湯用のタオルも持っていたので、それを二人ともそれぞれ持って、服が濡れないように上げながら足を浸す。
やや熱めのお湯だったが、それでも俺の口からは、ほぅっと息が漏れる。
「あー、こう、風呂って入るとほっとするんだよな」
これが日本人のDNAというやつなのか。
今が暑い季節だって分かっていても、この気持ちよさには抗えない。
ふと隣を見ると、別に日本人でもないマオも、同じようにふぅと息を吐きながら、幸せそうな顔になっている。
「マオんとこって、温泉とかはなかったのか?」
人前で迂闊に魔界、なんて言葉は口にできない。
なんとなくぼかしながら尋ねると、マオはほどけた表情のまま答える。
「我のところにもないことはなかったぞ。だが普通に入るには難しくてな」
「具体的には?」
「あちらでは千度越えが当たり前であったからな」
普通ってか……人間なら一瞬でお陀仏の温度だ。
「あとはそうであるな」
マオが小声で、普通でない理由を続ける。
「その界隈を生業にする非常に強い怪魚がおってな。仮に指を浸しでもすれば、一瞬で食いちぎられてしまう」
だからどうしても入りたければ、高温無効化の魔法をかけ、怪魚を倒すしかないと。
「そこまでして入りたいとはならん。余程のもの好きでない限り、近付きすらしなかったぞ」
「そりゃあそうなるか……」
情緒もなにもあったもんじゃない。
それに、マオの所望する温泉卵も、それじゃ作れないはずだ。
淹れた瞬間、ゆで卵どころか卵という物質自体がなくなりそうだもんな。
あ、卵といえば。
「そういやマオ、昼飯食べたのか?」
「いや、食べておらんな」
「なら宿に向かいがてら、美味しそうなもんがあったらちょっと食べながら行くか」
「ほう! それは良い考えであるな! ならば、我のチェックしていた蒸したて温泉まんじゅうとやらがちょうど通り道にあるようでな」
マオは俺に、嬉々として赤丸で印をつけたページを見せる。
『絶対に食べるべしっ!!』
と、ご丁寧にマオの自筆のメモ付きだ。
これは本命枠の一つってわけか。
「いいな、蒸したてはかなりそそられる」
俺もマオと同じで、昼飯を食べ損ねていたのだ。
この時間からあんまり食べすぎると、旅館の夕食が入らなくなるから、それくらいの軽いもんがいい。
早速俺たちは足湯から出ると、そのまんじゅうを売る店めがけて歩き出す。
程なくしてその店に辿り着く。
人がたくさん群がってたんで、すぐに分かった。
だが、回転が早いからか、並んでいてもすぐに俺とマオの番が来る。
「何個にします?」
サイズ的にはかなり小さい。
俺の口だと三口ほど。
一個じゃ足りなさそうだよなと思ってると、マオも同じことを考えたらしい。
それならとりあえず二個ずつにして、列の外に出ると熱々のまんじゅうを早速口に運ぶ。
途端に、優しい甘さと温かさが広がる。
中にこしあんが入った、素朴な味わいだ。
普通にうまい。
ちなみにこしあんと粒あんでどちらがいいか、なんて論争が巻き起こることもあるが。
個人的にはそれぞれのよさがあるんで、どっちも好きだ。
んで、もしこれに何か合わせるとしたら……。
「純米酒の……ぬる燗……いや、冷やしたにごり酒も捨てがたい」
「にごり酒とはなんだ?」
俺の独り言は、隣にもしっかり聞こえていたらしい。
マオがパクリと二口目を食べながら、小首を傾げる。
「あー……簡単に言うと、白く濁った日本酒だな。米の甘さがそのまま残ってる」
「ほう。日本酒は一度飲んだことはあるが、あれとはまた別なのか」
「基本は同じだけどな。んで、大体は冷やして飲む」
「この季節にはピッタリではないか!」
「ぬる燗も個人的にはおすすめだが、ま、もう少し涼しくなってからかな」
「ふむ、ではこれで涼しい季節の楽しみが増えたというものだ」
「んでにごり酒だけど、結構甘いが、意外にこのまんじゅうとは合うとは思う」
甘い酒が好きなマオにはピッタリだろう。
ただ、さすがに食べ歩きの最中に飲むのはあれなんで、近くの売店で買って宿に持ち込もうかと話をしていた時だった。
まんじゅうを全部食べ終わり、キラキラと目を輝かせ、にごり酒に想いを馳せているマオの口に、あんこのかけらがついていた。
「マオ、ついてるぞ」
そう言って、俺は何気なく指を伸ばした。
そして、口元にちょこんと付いたあんこをぬぐう。
「……あ」
思わず声が漏れたのは俺の方だった。
ヤバい、今の、完全に無意識だった。
こんなの普通に恋人の距離感じゃないか!
……いやまあ、同じ家に住んで同じベッドで寝て、なんなら観覧車でゴニョゴニョしたわけだし、対外的には恋人だが、それでもこれはなんていうか、違うんだよ!
思わず固まった俺だったが、ふとマオを見ると。
マオは一瞬きょとんとした顔をしていたんだが。
俺の指についたあんこを目にした次の瞬間、みるみるうちに耳まで赤くなった。
俺は慌てて鞄からティッシュを取り出し、何事もなかったふりをして指先を拭く。
「いやあれだ! あんこがついてたんだよ! ほら取れたからもう大丈夫だ!」
「う、うむ、そうか、お主の手を、煩わせてしまったな……」
「これくらい、別に……」
こんなとこで二人して赤くなっているのが気恥ずかしくなってきて、俺は強引に残りのまんじゅうを口に放り込む。
もはや甘さも何も分かったもんじゃない。
そのままマオを連れてその場を離れると、隣の店に入り酒を選び始める。
そのうちに、マオも俺も酒を選ぶことに意識が向いて、さっきまでの空気は、いつの間にか霧散していた。
マオは棚に並ぶ瓶を一つ一つ眺めながら、これはどんな味なのだろうか、と楽しそうに首を傾げている。
もう、さっき耳まで赤くなっていた面影はない。
それにほっとしつつ、心のどこかが地味に痛む。
……本当に、切り替えが早い。
いや、正確には、マオは最初から、引きずってなどいないんだろう。
……俺だけだ。
さっきの指先の感触や、あの一瞬の間が、頭の片隅にしぶとく残っているのは。
だから俺も、何でもないふりをして瓶を一本手に取った。
「これにするか! この温泉街の名産らしいしな」
「うむ、我もそれが気になっていたのだ!」
いつも通りの返事に、いつも通りの距離。
これくらいでちょうどいい。
自分に言い聞かせるように心の中で呟くと、俺は選んだ酒瓶を持ってレジへ向かった。




