39.●マオと初めての感情
夏樹やゆかりとの四人での早めの夕食も済ませ、二人を晃の車で自宅まで送り届けた後、スーパーに寄って晃が厳選した紹興酒を数本購入して帰宅すると、時計は九時を回ったばかりだった。
そこから二人とも入浴を済ませ、家にあった酒のつまみを口にしながらマオは初めての紹興酒に舌鼓を打ち、いつものように他愛もない会話を繰り広げていたのだが。
まだ十一時を回ったばかりだというのに、既に晃はソファの寝転がって夢の世界に旅立っていた。
「おい、晃、起きるのだ! こんなところで寝ていると、体を痛めるぞ」
しかしいくら体を揺さぶっても、一向に目を覚ます気配はない。
これはかなり珍しいことだ。
普段なら声をかけるだけで目を覚ますのに。
いつもどれだけ飲んでもけろっとしているので、短時間でこんなに酔いつぶれるのは、連日の疲れが抜けきっていないのも原因としてあるのだろう。
あとは、紹興酒を飲むのは久しぶりだと言いながら、結構なハイペースでぐびぐびとストレートで体内に流し込んでいたので、それも大きな要因かもしれない。
まして今日は仕事がある平日よりも起床時間は早かったし、晃は車の運転もこなしている。
遊園地ではたくさん歩き回り、体力も消耗していたことだろう。
仕方がないので、このまま寝かしておこうと起こすのは諦めたが、かといってここで夜を明けさせるわけにもいかない。
マオは晃の体を魔法を使って浮かせると、そのままベッドへと運ぶ。
そして部屋着からパジャマへと着替えさせるために彼に近付いて体を起こし、トレーナーを脱がせようと手をかけたところで、不意に今日の観覧車での出来事を思い出す。
途端に酒を飲んでいた時以上に体が急に火照り、真っ赤になった彼女は思わず晃から離れる。
が、勢いあまって晃の体を強く押してしまったため、彼はそのままベッドから落ちてしまう。
と同時に頭を床で強く打ったような音がした。
「あ、晃っ!?」
赤く染まったままの顔色はそのままに慌てて駆け寄ると、かなり痛そうなこぶができているというのに、それでも気付かないのか、変わらず晃は健やかな寝息を立てて眠っていた。
「……これでも起きぬとは」
とりあえず晃のこぶを治して彼の体をベッドまで引き上げたマオはもう一度着替えに挑戦しようとするも、晃の顔がしっかりと見える位置まで顔を寄せるとやはり照れが生じて、彼に再び怪我を負わせかねなかったので、結局断念することにした。
以前までのマオなら、何の躊躇いもなく晃の服を脱がしていただろう。
晃が眠そうな時に着替えさせようと、何度も申し出たことがあったほどだ。
勿論彼からは頑なに拒まれたが。
それなのに、晃とほんの少しの間唇を合わせただけで、こんなに自分が動揺するとは思ってもみなかった。
一方であの時の晃はといえば、マオが近付くまではしどろもどろしていたくせに、いざキスをすると、動悸がおかしくなって恥ずかしくなり逃げ出したマオとは対照的に、至って冷静に見えた。
山本里香という元カノもいたので、知識だけはあっても経験などほとんどないマオと違い、ああいったことも慣れているのだろう。
そう考えると、なぜか無性に胸の奥がムカムカとしてきて、同時に僅かな痛みも感じる。
家族に突き放された時の悲しみの感情とは違うもので、マオにとっては初めて感じる類の気持ちだった。
けれどそれの正体は考えたところで答えは出ず、結局気持ちがもやもやしただけに終わった。
「……我ももう寝るとするか」
これ以上起きていても答えが分からないことを延々と考えてしまいそうだし、家主不在の中一人で飲んでもつまらないしということで、マオもさっさと就寝することにした。
それからリビングへと戻って片付けをしたり着替えたりと三十分ほど経過したところで寝室へと戻ってきたマオは、いつものように晃の隣に体を横たえる。
が、今日はいつもと違うことが起こった。
「マオ……」
寝起き特有の掠れた声で晃に名前を呼ばれて、てっきり熟睡しているものと思い込んでいたマオは驚きつつ、返事をしようと口を開くが、声を発する前に思いっきり晃に抱きしめられていたのだ。
「なっ!? お、おい、晃!?」
前までなら喜んで抱きしめ返して、なんならそのまま服を脱がせながら晃のズボンに手をかけていたであろうマオだが、今日はさすがに無理だった。
それどころか悲鳴に近い素っ頓狂な声が上がってしまう始末で。
何のつもりだと目を白黒させた状態で、恥ずかしい気持ちを抑えつつ晃に視線を向けると、彼の瞼はぴったりとくっついていて開く気配はなく、さっきマオの名前を読んだはずの口は既に閉じられており、代わりに僅かに開いた唇からは寝息が漏れ出ていた。
「眠っている……のか?」
返事はない。
つまりそれが答えである。
呼ばれたと思っていたが、どうも寝言だったらしい。
それがなぜか無性に残念に思いつつ、きっと今抱き着いているのも、抱き枕か何かだと思っているのだろうと考える。
そうすると自分一人だけ慌てているのが馬鹿らしくなり、途端に熱も引いて冷静になる。
だからため息を吐きながら体に回された晃の腕を解こうとしたマオだったが、ここでちょっとした悪戯心が湧く。
もしも今の状態のままで朝を迎え、晃が目を覚ましたとしたら、一体どんな反応を見せるのか。
大したことはないといつも通りの顔をして、腕の中にいるマオを起こしてくるのか。
それともさっきのマオのように顔を真っ赤にさせて慌てふためくのか。
晃の反応を見たいと思ったマオは、羞恥心で再度体に熱が籠もるのを感じながらも、自ら晃の体に自身の体を摺り寄せて、そっと目を瞑った。
眠気はなかったはずなのだが、晃と密着して体温を分け合っていると安心できるのか、彼の規則正しい寝息を聞きながら、マオは自然と眠りについていた。
翌朝。
「うわぁぁぁぁっ! なんでこんな状況になってんだ!?」
耳元にいきなり響いた大音量により、マオは一気に眠りの世界から引き戻されぱちりと目を開けると、すぐ傍にいた、熟れたトマトよりも更に顔を赤くした晃と目が合った。
そうすると晃は更に限界まで顔色を真っ赤に染め上げ、けれどすぐに、今度はなぜか血の気が引いて青くなる。
「っ待て、マオが抱き着いて……ってこれ俺の方ががっちりホールドしてるっていうか、俺がむしろマオを抱きしめてるってことで────クソっ、昨日の記憶がない! ……マオ、俺昨日マオになんか変なことしてないよな? 頼む、してないって言ってくれ! いやでも俺昨日記憶なくすくらい酒飲んでたみたいだし、なら理性崩壊して我慢できなくてマオにやっぱりなんかしててもおかしくないっていうかむしろ相手がマオだからこそ何もしてないはずがない……」
「お、おい、晃?」
けれどマオの呼びかけも聞こえないのか、晃はマオから離れてベッドから飛び出すと、ものすごい勢いでその場に膝をついて座って床に頭を擦り付ける、いわば土下座スタイル状態で叫んだ。
「悪いマオ! いや、謝って済む問題じゃないってのは分かってるが、本当に悪かった!」
想定していたよりもかなり激しい反応を見せられ、マオは思わず目をぱちくりとさせる。
誰がどう見ても明らかに動揺している。
それも晃のあの言動から察するに、何もしていないとはいえ、マオとそういったことをするのを嫌がっているわけではなさそうだ。
意識しているのは自分だけではなかったのかと、そのことがどうしようもなく嬉しかった。
本当なら晃の罪悪感を失くすために、早く真実を伝えるべきなんだろうが、もう少しだけこの状況を楽しみたいと思ってしまったマオは、晃に向かって、
「……昨晩は何もなかった、と言いたいところであるが。そうか、晃は何も覚えてはおらぬのか」
という台詞をこぼせば、更に慌てふためく晃を見ることができた。
勿論それは少しの間だけで、その後すぐに晃には真実を伝えたが、マオの心に巣食っていたもやもやは随分と軽くなったのだった。




