37.マオと観覧車②
目の前にマオがいる。
それも、心臓の音が聞こえそうなほどに近い距離にだ。
相変わらず一緒に寝ている毎日だが、それでも無駄にデカいベッドなため、肌が触れ合う距離になることはない。
なのに今は、少し顔を動かすだけですぐにでもマオの唇に触れることができるのだと思うと、自然とごくりと喉が鳴る。
すると、それに気が付いたらしいマオは、無邪気な顔で笑った。
「お主の好きにするといい。我は、今は晃の彼女なのだから」
これまでだって似たようなことはマオから言われてきた。
それなのに今に限ってマオの言葉に乗せられてゆっくりと顔を近付けてしまうのは、やっぱり閉鎖されたこの特殊な空間とか、不本意にも仲の良さを見せつけられたあいつらが原因なんだろうか。
理性の糸が一本ずつ切れていくのを感じながら、心のどこかでまだ正気を保っているもう一人の俺が、俺自身を嘲笑う。
何が今のままでいる方がいいだ。
色々綺麗ごとを並べ立ててたが、結局本当はこういうことをしたいだけなんだろうと。
マオが空気を読んだのか、そっと目を瞑る。
熱に浮かされた俺と違い、マオは動揺することも頬を染めることもなく、極めて冷静だ。
それはそうか。
だってマオは、ただ俺のために彼女として装い、今こうしてるにすぎない。
彼女に嫌われてはいないって自覚はあるが、かといってマオは俺とは違い、俺のことをただの恩人としてしか思っていないはずだ。
そんなのはずっと分かっていたことだ。
だからこそ、俺が仮にマオの唇を奪ったところで、きっと何事もなかったようにいつも通りのマオでいるのだろう。
そう考えた瞬間、胸の中に虚しさが広がる。
だから息がかかりそうなほどまで近付けた自分の唇を、俺は断腸の思いで離そうとしたのだが。
その瞬間、俺と同じボディーソープの他にマオ自身の甘い香りも混じったのが鼻をくすぐったのと同時に、最後の糸が切れた音がした。
────クソ、もうどうにでもなれ。
そのまま俺は、虚しさも何もかもをいったん全て忘れて、マオに口付けた。
どのくらいの時間そうしていたのか。
熱が離れる名残惜しさを感じながらそっと離れ、目を開けた俺は、ついさっきまで触れ合っていたマオの顔をじっと見つめる。
俺と同じタイミングで瞼を開いたマオの表情は、予想通り、キスをする前のマオと全く変わらないように見えた。
そのことに、途端に虚無感と後悔の気持ちが湧き上がる。
マオはあの夏樹たちに触発されて、恋人っぽい行動をしないといけないという義務感から近付いてきたのであって、今の行為に特別な意味はない。
マオとしては自分を拾ってくれた俺に対する恩返しのつもりで、言ってみればボランティアしてるようなもんだろう。
……やっぱり感情に呑まれて余計なことするんじゃなかった。
結果、俺だけが妙に気まずいような、そんな気持ちに苛まれるだけに終わった。
そう、思っていたんだが────。
マオの様子がおかしい。
目を開いてこっちを見てはいるが、どうも焦点が合っていないというか、心ここにあらずというか。
色々耳年増なマオのことだ。
どっかの少女漫画みたいな『初めてのキスはレモンの味がする』的なのを期待してたにに、そうじゃなかったからショックを受けてるとかか?
どうしよう、最後に俺が口にしたもんといえば、観覧車に乗る前に飲んだ本日二杯目のコーヒーだったんだが。
こんなことならレモンの輪切りでも口に含んどきゃよかった。
もしくは目開けたまま気絶するほどに俺とのキスがショックだったとか。
……現実的に考えるならむしろこっちだろうな。
向こうから近付いてきたとはいえキスした後にあからさまに拒否されると、さすがにへこむんだが、不快な気持ちにさせてしまったんなら謝らないといけない。
それにしたって、瞬き一つせず微動だにしないマオにさすがに俺も心配になって声をかける。
「おい、マオ?」
すると、その声が耳に届いたのかビクッと体が跳ねる。
が、次の瞬間、俺の姿を認識したマオの顔色が、いきなり瞳の色と同じくらいに真っ赤に染まる。
その上未だに俺の手の上にあったマオの手も、急に体温が上がったようで俺以上の熱さに変わったかと思うと、すぐに俺から猛烈なスピードで離れ、顔を手で覆いつつ普段よりも焦ったような早口で一気にまくしたてた。
「晃、これは、あれだ、あれなのだ! 我はこれまでこのような経験はなかったとはいえよく恋人同士のしているただの唇と唇を合わせるだけの行為など、何も動揺することはないと思っておったのだ! しかし我の申し出を晃が受けてくれるのは今回が初めてであったし、それに、その、晃が相手だと思うとなぜか羞恥心というか高揚感というか、我も自分で驚いているのだが急にそういう感情に苛まれておってだな」
「え」
「我も頭では分かっておるのだ。我は晃の恋人役であるのだからこのくらい、あのゆかりんみたいに当たり前のようにこなさねばいけないことくらいは。しかし実際にやってみると我にはどうにも無理であった。我は晃の恋人役失格だ……。それについてはまたあとで謝罪をする。だが今我は見るに堪えない顔をしておる故、できれば熱が冷めるまではこちらを見ないでほしいのだ!」
…………待て待て、おかしい。
確かにマオの言う通り、今回は正気を失くした俺が初めて、うっかりマオの提案を呑んで口付けをするに至ったんだが、これまでマオは俺に、胸を使ってもいいだの昇天させてやるだの、左手の代わりにしてもいいだのと散々に過激な提案をしてきた。
そんなマオだったから、俺の予想では、キスなんて行為はさらっとこなした後、平然とした顔で、もっと恋人っぽさを醸し出すために次は更に段階を進めて今夏樹たちのやっている真似事をしようではないかとかなんとか言って、いつものように押せ押せモードでこっちに迫ってくるんだと思っていたんだが、なんだこの展開……。
予想外のことに、俺の中にあった虚無感とか後悔とかはどっかに吹き飛んでいき、代わりに凪いだ海のように収まりつつあった心臓が再度鼓動を早く刻み始める。
俺は思いっきり動揺しつつ、ここまできて勘違いだったら死ぬほど嫌なので、一応マオに確認してみる。
「え……っと、俺のことが嫌だった、とかではないのか……?」
するとマオは顔は上げないまま首をこれでもかと大きく横に振ると、即座に俺の台詞を否定する。
「そんな訳がなかろうが! 我が晃のことを嫌うなどということは絶対にありえんことだ。むしろお主は恩人ではあるがそれ以上に、我は晃のことは好ましく思っておる。そうでなければいくら恩返しのためとはいえ、我は自らこのような提案はしない!」
「っ!」
マオから放たれた言葉が俺にもろに直撃し、途端にこっちまで顔が赤くなったのが分かる。
マオの言う好ましいってのは俺の持ってる好意と意味合いは違うとは思うが、それでもマオには俺に対して恩人以外の感情があるんだということを初めて知って、顔がにやついてしまう。
あー、なんだこれ。
めっちゃ嬉しいわ。
しかも俺の目の前には、ぷるぷる震えながら耳まで真っ赤にするという、死ぬほど可愛い状態のマオがいるわけで。
ここで俺は気付く。
……これ、ヤバいかもしれない。
ここは密室で、外に目をやればまもなく頂上にさしかかるところで、あと十分以上はここから動けない。
その事実に、繋ぎ合わせたはずの理性が一気にブチブチと切れていくのを感じながら、いやしかしここは冷静になれと必死で自分を戒める。
まずは深呼吸だと大きく息を吸い込むが、さっきまで密着していたマオの香りがほのかに俺から漂ってきて、深呼吸は中止する。
駄目だ、もう一度言おう。
冷静になれ俺。
────こういう時は何か頭が冷えることを考えよう。
そうだ、円周率。
円周率を考えるのはどうだ。
ちょっと地味な特技かもしれんが、俺は円周率を二千桁まで暗記している。
ということで俺は、マオを視界に入れるとまずいんで──あと本人にも見るなって言われてたから──窓の外から見える絶叫コースターが走っているのを見つつ、心の中で無心で円周率を唱え続けた。
そして桁が千二百を超え、いい加減こっちも頭が冷えたタイミングで、マオから声がかかった。
「晃、もう大丈夫だ。……すまなかったな。我は曲がりなりにもお主の彼女であるというのに、あのように取り乱してしまうとは」
コースターから視線をマオに向けると、言葉通り赤みも引いて落ち着いたらしいが、顔から手は外れているものの、少し目を伏せた状態のマオの姿があった。
……そういやこんなことになったのって確か、本物の恋人である夏樹たちに倣い、周りから疑われないようにそれっぽい行動を取った方がいいんじゃないかとマオが判断したから、だったな。
そしてマオは、夏樹たちのようにうまいこといかず、そのことにショックを受けていると。
が、そもそもアレを参考にするのが間違っていると思う。
仲がいいに越したことはないが、あいつらは俺の知る限り、最も参考にしてはいけない過激派カップルだ。
それにマオが心配するまでもなく、俺とマオが恋人だってことは夏樹たちを含めて誰も疑っていない。
だから無理に何かをする必要はないと告げると、マオはおずおずと顔を上げた。
「そうなのか? 我はこのままでもちゃんと、晃の求める役割を果たせているのか?」
「ああ。むしろ十分すぎるくらいだ。それより俺の方こそ悪かったよ。……この世で最も倣うべきじゃないあいつらの雰囲気にうっかり呑まれてさ」
「何故晃が謝るのだ。先に言い出したのは我だ。お主は何も悪くない」
「いやいやあそこでマオを止めなかった俺もダメだろう」
「いいや、悪いのは我であって」
「だから俺の方が」
「我の方が────」
「俺が────」
互いに一歩も引かないやり取りに、これもしかして不毛な言い争いなんじゃないかと思ったが、それはマオも同様のようだった。
だからこの件に関してはどっちも悪くないってことで無理やり話を終わらせた。
そしてマオには、
「いいか。恋人ってのも色々なんだよ。んで、少なくとも俺はあっちのバカップルみたいに、こういう場でなんやかんやするのを好むタイプじゃない。だからほんと、普段通りでいいから」
と念押しすると、ようやく調子が戻ってきたのか、罪悪感に塗れていたマオの顔がいつものマオに戻り、合点がいったように頷いてくれた。
それを見ながら、内心ほっとする。
正直に言えば、マオと初めてしたキスは頭の中がクラクラするくらいには癖になりそうなもんだったし、その後のマオの反応も個人的には何度も見たいとは思った。
だが、毎回自分自身に言い聞かせているが、マオが俺に対して感じている感情は、好ましというものがあるとはいえ、それでも恩返しの意味合いの方が強い。
ならやっぱり、俺はまだ、マオとは今くらいの距離感がいいし、それで満足しているのも事実だ。
……あとあんなん毎回やったり見せられたら俺が色々もたない。
心臓に悪すぎるし、早死にしかねん。
とにかくこれでなんとか危機……って表現していいのか分からんが、この妙な状況を抜け出すことには成功した。
その後は一緒に外を見ながら、マオと二人で今日の思い出なんかを振り返っていた。
「ところで、マオはどれが一番よかったんだ?」
横で見ている限りだとどのアトラクションも喜んでいたが、やっぱりリベンジで乗ったあのコースターでのマオは、体調も回復したあとということもあって、こぼれんばかりの笑顔だったし、きっとそれ一択だろうと思っていた。
が、予想に反してマオは、考え込むように顎に手を当てる。
「非常に難しい質問であるな。……当然絶叫コースターだと言いたいところではあるが、ヒーローショーもなかなかよい。それに、回転ブランコの振り回される感じも好みであった。だがあの昼食も、個人的にはかなりポイントが高いのだ」
「え、遊園地に来て、まさかの昼飯が候補に挙がるのか?」
「勿論だとも! ゆかりんのオススメしてくれた小籠包とやらが、我は特に気に入ったのだ。今度は家でも作ってみたいと思っておるぞ」
まあ、昼食の時もあんだけ感激してたもんな。
ここで小籠包の名前が挙がるのも、マオらしいっちゃマオらしいか。
「しかし中華か。なら合わせる酒にはビールもいいが、俺的には紹興酒も捨てがたい……」
半ば独り言のようにそうこぼすと、酒には目のないマオがそれを聞き逃すことはなく、即座に反応を見せる。
「紹興酒……聞いたことがあるぞ! 確かこの国ではなく、中国のお酒であったか」
「ほんと、よく知ってるよな。合ってるけど。それもテレビ情報か?」
「うむ、そうであるぞ。……して晃。そのお酒は美味しいのか?」
「マオも俺と同じで基本的になんでもいける口だから、多分美味しいって思えるんじゃないか?」
途端にマオの目が分かりやすく輝いた。
どうも紹興酒をご所望らしい。
うちには置いてなかったから、飲もうと思ったら買いに行くしかないが。
「なら帰りにスーパー寄って買っていくか」
よく行くあのスーパーは、酒の品揃えがえげつないほどに豊富だ。
よって、探せば絶対にあるっていう確信があった。
最近は飲んでなかったが、どの飲み方にすべきか悩ましいところだ。
料理と一緒ってことならロックでもいいが、晩酌として飲むなら個人的にはストレートでちびちび飲むのが好みだ。
そんな話をしながら、俺とマオは最終的には通常通りの会話を繰り広げ、一周約二十分のアトラクションは終わりを迎えた。




