10.戻ってきた日常
あの家からは満員電車に揺られること五駅。
駅からしばらく歩くと辿り着いたところにあるのが俺の働く会社だ。
働き出して四年になるが、それなりに順調である。
これから使う資料をまとめてから会議室へ向かうと、そこには既に先客がいた。
「おう夏樹」
「晃、おはよう!」
爽やかな笑顔で出迎えたのは、俺と同期入社の五代夏樹である。
顔は可愛い系のイケメンであり、営業成績も良く、そして裏表のない人懐っこい性格もあって、男女問わずモテモテな男だ。
非の打ちどころがなさ過ぎてもはや嫉妬心すら起きない。
デスクも隣同士だし一緒に飲みに行くことも多いので、社内では一番仲がいい。
夏樹は俺の顔を見ると、怪訝そうに眉をひそめる。
「ねえ、今日の晃さ、珍しく顔色がいいじゃん。どうしたの?」
「まるで普段の俺の顔色が悪いみたいな言い方だな」
「えっ、もしかして自覚なかったの? 朝の君はいつもゾンビみたいな顔をしてるんだけど」
酷い言われようである。
だが、今日はいつもと違うと言われると、まあそうだろうなと思い当たることはある。
「昨日はよく眠れたからかな。久しぶりにベッドで寝たわ」
「逆に普段はベッド以外のどこで寝るのさ」
「ソファとかだな。飲みながらそのまま寝落ちすることが多いし」
あとここ三カ月ほどはソファよりも更に寝苦しい寝具だったのだが、それについては言及しなかった。
それに隣に人肌があったことも、もしかしたら熟睡の理由の一つかもしれない。
妙に安心できたからな。
勿論こっちも口にはしなかったが。
と。
「先輩、入り口に立っていると邪魔なので、早く中に入ってください」
「っと、悪い悪い」
背後から声がして慌てて扉の前からどいて手近な席に着くと、後輩の千草ゆかりが部屋に入ってきた。
俺たちの会話が聞こえていたようで、眼鏡をかけたクールビューティーな彼女はわざとらしくため息をついた。
「大体先輩は働きすぎなんです。ベッドに辿り着く前にソファで眠ってしまうのがその証拠です」
「いや、それがうちのソファ、案外寝心地が良くてな」
「そういう問題ではありません。大体先月だって定時で帰った日が何日あったか覚えていますか?」
「……五日くらい?」
「ゼロ日です」
少ない自覚はあったがまさかゼロだったとはと、自分で驚く。
そしてそれを把握している千草さんにも。
「上であるあなたがオーバーワークだと下である私達後輩も帰りづらいので、急ぎの仕事がなければ早々に帰ってください。あと、誰もいないからといって積極的に休日出勤もし過ぎです。適度に休みも取ってください」
「……はい、善処します」
後輩に叱られるとは情けない。
だが大した趣味もなく、彼女の一人もいない俺は、半日でもいいから働く方が楽しいんだけどと思っていたら、最後に会議室に入ってきた上司である伊吹薫子が、こっちの内心を見透かしたように、微笑を浮かべながら正面に座る。
「千草さんの言う通りよ。ねえ霧島君、もしも休日に何をしていいか分からないということなら、その時は是非私を誘ってちょうだい。素敵なデートプランを用意してあげるわよ」
「そういう口説き文句は俺じゃなくて、旦那さんに言ってくださいよ」
俺より五つ上で柔らかい雰囲気を醸し出す、見た目は癒し系の伊吹さんは、多くの男性のハートを鷲掴みにしている。
しかしおっとりした外見とは裏腹に仕事は手早く、異例の早さで出世して課長になったすごい人だ。
ちなみにモテるが故になのか、既にバツ二なのだが。
「あら、夫とは一昨日別れたのよ」
知らぬ間にバツの数がもう一つ増えていた。
確かについこの間まであった指輪が、薬指からなくなっている。
「そういうことだから、あなたをデートに誘っても問題ないの」
「伊吹課長、もしかして晃のことタイプだったりします?」
夏樹から飛び出した質問に、伊吹さんはふふっと口元を緩める。
「そうね。仕事は丁寧で早くて頼りになるし、私は結構気に入っているけど」
「あんまり非モテ男をからかわないでくださいよ。あと課長の好みは、俺の同期で隣の課の高島みたいなやつですよね? あいつ彼女と最近別れて傷心中なんで、誘うんならあっちでお願いします」
美人に誘われて悪い気はしなかったが、そもそも伊吹さんの趣味はプロレス観戦であり、したがって彼女の好みもそういう系統の男性だ。
そして高島の好きな女性のタイプは年上らしいので、案外うまくいくかもしれん。
「いいこと聞いちゃったわね。ありがとう、今度誘ってみるわ」
笑顔でそう答えた伊吹さんの目の奥が一瞬ギラリと輝いたのを見て、同じくそれを目撃したらしい夏樹と無言で目を合わせる。
俺達は多分同じことを思っている。
これ、高島速攻で喰われるだろうなと。




