唐揚げと、父の思い出と
家のドアを開けると、ふわっと香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「おかえり〜!」
明るくて優しい声。キッチンから、エプロン姿の母・恭子が顔を出した。
「…ただいま」
ちょっと声が弱かったかな、と思ったけど、母はいつものように笑っていた。
(よかった。変に思われてない…よね)
そんな小さな安堵が胸をゆるめていく。
食卓には、母特製の唐揚げが並んでいた。こんがりと揚がった衣の中に、ジューシーなお肉が詰まっていることを、あかりは知っている。
その隣には、なすの味噌汁。とろっとしたなすに、優しいだしの香り。
「今日もおつかれさま。いっぱい食べなさい」
母のその一言が、何よりも嬉しかった。
椅子に腰を下ろすと、途端に体の力が抜けていく。
温かい味噌汁をひと口飲んだだけで、疲れた心が少しずつ溶けていくようだった。
「…今日ね、会社でいろいろあって」
あかりは、職場での出来事をぽつりぽつりと語り始めた。
小杉に嫌味を言われたこと。
そして——
「あとね、増田さんがまたマウント取ってきてさ。
『私ならもっと早く終わらせてるけど?』とか、『春日さんって、丁寧なのはいいけど要領悪いよね〜』って」
自分でも、笑って流せばよかったと頭ではわかっている。
でもその場を離れても、胸の奥に言葉の棘が刺さったままだった。
(ほんとに私って、要領悪いのかな…)
また気にしすぎてる。わかってるのに、やめられない。
話を聞きながら、母は黙って唐揚げをよそってくれる。
何も言わないけれど、その静かな優しさが、どんな慰めの言葉よりもしみた。
唐揚げをもうひとつ口に運んだとき、ふと、懐かしい記憶がよみがえった。
「…ねえ、覚えてる? お父さんも、この唐揚げ、大好きだったよね」
その言葉に、恭子は一瞬手を止めた。少しだけ視線を落とし、それから懐かしそうに笑う。
「うん。揚げたそばからつまみ食いして…『揚げたては格別だなあ』って、子どもみたいな顔してた」
あかりも笑った。思い出の中のお父さんは、いつもどっしりとしていて、安心感があった。
大きな手で頭をなでてくれたこと、運動会のとき、誰よりも大きな声で応援してくれたこと。ビデオ片手に走り回っていたこと。
「小学4年生だったんだよね、私」
その声は、少しだけ震えていた。
もう十年以上も前のことなのに、あの日の空気や匂い、母の泣き顔は、今でもはっきり思い出せる。
「…ほんと、大変だったよね。あのとき」
恭子はゆっくりとうなずいた。
「うん。毎日、必死だった。あんたには心配かけまいと思ってたけど…気づいてたでしょ?」
あかりは、首を小さく縦に振った。
「でも、お母さん、毎日ちゃんとご飯作ってくれてた。朝も夜も、ちゃんと笑ってくれてた」
「…そうしないと、私まで折れそうだったのよ」
恭子の声に、少しだけ涙のにおいが混じった気がした。
「でもね、あんたがいたから、私は頑張れたんだよ。お父さんが残してくれた一番の宝物だから」
その言葉に、あかりの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
唐揚げの味が、少ししょっぱくなった気がした。
「ねえ、お母さんから見て…お父さんって、どんな人だった?」
恭子は少し考えて、懐かしそうに笑った。
「うーん…そうね。真面目で、ちょっと頑固で…でも、根っからの家族人間だったわ」
「仲良かったよね。二人で笑ってるの、よく覚えてる」
「そうだったかしら? ケンカもしたけどね。お金の使い方とか、私が勝手に旅行のパンフレット取り寄せたとかで、揉めたわよ。旅行に行くときになんて、計画を立てるときから大げんかよ」
そう言いながらも、恭子の表情はどこか優しく、遠くを見つめていた。
「でも、最後の晩も、唐揚げだったのよ」
「え…」
「あの人、『やっぱりこれが一番だな』って笑ってた。あの顔、今でも忘れられない」
あかりの胸が、ぎゅっと締めつけられる。笑っていた父の顔、たしかに思い出せた。
「…私、お父さんの子どもでよかった」
あかりにとって、母のごはんは「居場所」そのものです。
唐揚げの香りが、優しい記憶をそっと引き寄せてくれました。