口が滑ってしまう日
翌日。先日契約した田中さんに、資料のことで電話をした。
「いやあ、やっぱり引き渡しって複雑なんですね。正直、何からどう進むのか、わからなくて…」
「大丈夫ですよ。ちゃんと書類にしてお渡ししますね」
「ありがとうございます。いやぁ、助かります」
その一言で少し安心したけれど、もしかして気を遣わせてないかな。
『そんなのいらない』って思われていたらどうしよう…なんて、考えすぎだってわかっていても止まらない。
それでも、やっぱり渡しておきたい。
きちんと“わかる形”で説明することが、自分にできる精一杯の誠意だと思った。
私はWordを開き、田中さんに合わせた説明資料を作りはじめた。
資料を作り始めてしばらくすると、ロッカー付近でガチャガチャと音がして、小杉先輩が香水を手に取った。
「っしゃ〜今日もいい香り!」
誰に言うでもなく、上機嫌な声。シュッ、シュッと香水を空間に振りまくと、事務所の空気が一瞬で甘ったるく変わった。
「なあ春日、お前って高校ん時、モテた? オレはさ、剣道部のキャプテンでさ。まあ当然、後輩から“先輩〜!”って慕われてたんだけど」
パソコンの画面から目を離さず、私は「…そうなんですか」とだけ返した。
「で、駅伝大会のときなんて、オレがゴールした瞬間、女子たちがわーって駆け寄ってきてさ、タオルとか差し出してくるわけよ。“賢吾先輩〜!かっこよかったです〜!”って」
たぶんそれ、十年以上前の話だよな、と思いながらも、私は相槌を打つだけだった。
「まあ、今でもけっこう見られてるけどな。ちょっと駅前歩けば、“あの人イケてない?”ってなるもん。ていうか、そう言われたことあるし。マジで」
私は場を和ませようと、良かれと思ってつい言ってしまった。
「でも…なんか、小杉先輩って、“自分がかっこいいと思ってる人”っぽいっていうか…みんな本当にそんな風に見ているんですかね?」
——しまった。
自分でも何を言ったのか、一瞬わからなかった。
「……は?」
先輩の笑顔が、固まった。
「え、いや、いい意味で。なんていうか、自信がある感じっていうか……」
「“思ってる人”って、それオレが“思ってるだけ”ってこと?自意識過剰って言いたいのかよ!」
「ち、違います、そういうつもりじゃ――」
「そっか。春日って、そう見てたんだ。へぇ……」
香水のノズルを乱暴に押して、先輩は何も言わずに立ち上がった。
振り返りもせず、甘ったるい香りと一緒に去っていく背中。
私はしばらく動けなかった。
言葉選び、間違えた。
本当に、もう…なんでああいうときに口が滑るんだろう。
小杉が去った後、
「あれさ、ほんと酔うよな…」
奥のデスクから、三村くんのぼやきが聞こえた。
「朝もあれやられると、マジで頭痛するんすよ」
「空調回ると匂い充満するのよね…自己主張がすごいのよ」と、村上さんも鼻を押さえている。
私は「すみません…」と小さくつぶやいた。
私のせいじゃないのに、つい謝ってしまう。誰かの不快さに、自分が関わってる気がしてしまうから。
香水の匂いよりも、空気の重たさがしんどい朝でした。
つい、口が滑っちゃうときってあるよね……。