“買うつもりだったのに”と言われた午後
午前中、代表電話にかかってきた一本の問い合わせ。
「折り込みチラシに載ってたマンション、まだ見ることできますか? 今日って案内してもらえます?」
女性の声は明るく、前のめりな印象だった。
「条件も良さそうだし、主人とも相談して、もう買うつもりでいるんですよ」
“もう買うつもり”――その言葉に、あかりも気が引き締まった。
すぐに時間と場所の約束をし、現地へと向かう。
現れたのは30代後半くらいの夫婦。
奥さんが主導していて、電話の主は彼女だとすぐにわかった。
「こんにちは、春日と申します。今日はよろしくお願いします」
「どうも〜。すみませんね、急に。でも、もう見た瞬間“これだ”って思っちゃって」
奥さんは笑っていたけど、表情には落ち着きがなかった。
部屋を案内する。築15年の3LDK、南向き、角部屋。
掃除も行き届いていて、悪くない物件だった。
「リビング、思ったより広いかも」
「でもちょっと天井低くない?」
「いえ、標準で2.4メートルです」
スムーズに見える会話の裏で、夫婦はどこかソワソワしていた。
質問が次々飛んできて、応じながらも、あかりはざらつきを感じていた。
(……なんか、ちがう。電話での感じと)
そして最後に、奥さんが一言。
「ちょっと……やっぱり今回は、見送らせてもらいます」
唐突だった。
何も言えないまま、夫婦はぺこりと頭を下げ、そそくさと去っていった。
静まり返る部屋に、あかりだけが取り残された。
(……え?)
(何がいけなかったの? 案内? 話し方? 服装?)
(それとも、最初から“冷やかし”?)
答えのないまま、鍵を閉めて深く息をつく。
会社に戻ると、田所が電話を終えたところだった。
「さっきの案内、どうだった?」
あかりは一瞬ためらったが、正直に答えた。
「……見送りになりました」
田所の眉がぴくりと動く。
「は?」
その一言だけで、空気が一気に冷える。
「電話では“今すぐ買いたい”って言ってたんだろ? それを、買わせないで帰したのかよ?」
「でも……現地で実際に見て、やっぱり違うと思われたみたいで。質問にも答えて、できる限りのことは――」
「“できる限り”って、誰が決めたんだよ?」
冷たい声だった。
「お前の“できる限り”が通用するなら、営業なんて誰でもできるんだよ。
本気で買いたい客だったのに、逃がしたのはお前の責任だろ」
(……ほんとに私のせい?)
反論したいのに、声が出なかった。
「はあ……ほんと使えねぇな」
その一言が、心の中にじわじわと染みていく。
椅子に座っていたけれど、心の中では崩れ落ちそうだった。
(私、何やってたんだろう)
(全部、自分が悪かったの?)
(努力しても、報われないなら、何の意味があるんだろう)
目の奥がじんわり熱くなった。
でも、泣かなかった。泣けなかった。
(ここで泣いたら、田所たちに“女は感情的”って笑われそう……)
それだけは、絶対にイヤだった。
自分を守るように視線を落とし、パソコンに向かう。
震えた手元を見られないように、静かに指を組んだ。
退勤の時刻が近づいて、靴を履いていると、隣に三村が来た。
「春日さん、帰ります?」
「うん、もう限界」
「ですね」
それだけ。なぐさめも評価もない、ただの事実。
でも、なぜか救われた。
会社の外に出ると、風がほんの少し湿っていた。
歩きながら、ふと聞いてみた。
「……三村くんってさ、怒られることってある?」
「ありますよ、そりゃ。
田所さん、気分で当たるし。内容というより、タイミングっすね」
(タイミングか……)
「春日さんも、今日はタイミング悪かっただけじゃないですか?」
「うん……かもね。いろいろ重なったし」
「そーゆー日もあります」
たったそれだけの言葉。
でも、今はそれがちょうどよかった。
少し歩いて、三村がぽつりと言った。
「俺にはできない対応してるなって思うとき、ありますよ」
「……え?」
「ちゃんと丁寧に話聞いてるし、気ぃ遣ってるなって」
その言葉は、あかりの心にすっと染みこんだ。
なぐさめでも、お世辞でもない。だからこそ、まっすぐ届いた。
「じゃ、お先にっす」
そう言って、三村はひらひらと手を振って歩き去った。
その背中を見送りながら、あかりはそっと思った。
(……今日は、それがちょうどよかった)
結果がすべて、って言われる仕事の中で、「ちゃんとやった」って誰かに言ってもらえるだけで救われること、ありますよね。
三村くんのさりげない一言、沁みました。




