“下さい”と、小杉の説教と。
土日は久しぶりに少しだけ勉強に時間を使った。
とはいえ、増田と顔を合わせてしまい、モヤモヤとした気持ちが尾を引いたまま終わった休日だった。
毎週きちんと休めるわけじゃない。仕事が入れば出勤。それがこの職場だ。
わかってる。わかってるけど――なんだか報われない。
そんな気分のまま迎えた、月曜の朝。
「おーい」
声の主は田所だった。
またか。月曜からか。胃がきゅっとなる。
「この前頼んでた資料、できてるか?」
相変わらずの命令口調。
「はい、こちらです」
あかりは淡々と書類を差し出した。
田所はそれを受け取り、眉間にしわを寄せながら目を通す。
「……これさ」
と、低い声。嫌な予感。
「“ください”のところが“下さい”になってるけど?」
あかりは一瞬、何のことかわからなかった。
「……あ、すみません。でも、社内用の資料だったので、そこまで堅くなくてもいいかなと思って……」
言った瞬間、自分の言葉に「あ、これまずかったかも」と思った。
でも、それでも――そんなに責められるようなこと?
「“堅くなくてもいい”? は?」
田所の声が一段低くなる。
「お前さ、そういうところが甘いんだよ。
書類ひとつにしても、“これは大丈夫”って勝手に判断していいことなんて、何一つねぇんだよ」
「……すみません」
あかりは口ではそう言いながら、心の中では全然納得していなかった。
(いや、社内で使う資料だし。お客様に出す契約書でもないし。
意味もちゃんと通じるし、そもそもそこまで目くじら立てるほど?)
(そんなに完璧求めるなら、自分で作ってくれればいいのに……)
「“ください”を“下さい”って書いたくらいで、そんなに怒ること?」
とはもちろん言えない。黙って下を向くしかない。
田所は書類を机に叩きつけるように置くと、冷たく言い放った。
「直しとけ」
「……わかりました」
田所が去ったあとも、あかりの中でざわざわとしたものが収まらない。
(朝から、なんなの? ほんと……)
(間違ってないとは言わないけど、そんな言い方しなくたっていいじゃん)
あかりはため息をつきながら席に戻った。
まだ週の始まりなのに、もう週末の気分だった。
静かに深呼吸して気持ちを切り替えようとした、その瞬間だった。
「お〜お〜、また朝からやられてんじゃん、春日」
横から、嫌な声。小杉が、腕を組んでふんぞり返るように椅子に足を組んで座っていた。
「“ください”が“下さい”って、そんなとこでまた怒られる?
いや、まあ田所さんも細けぇなとは思うけどさ〜、そういうの気にするタイプって、もうわかってんじゃん?」
鼻で笑いながら見下すその態度に、あかりの背筋がぴくりと反応する。
「ってかさ、先週のこともう忘れてんの? 契約書の日付、間違えてたやつ。
書類の作成で気を付けないと、とか思わないわけ?」
(……は?)
「あとさ、コピーも大量にしてたよね。あれ2部って言ってたの、俺ちゃんと聞いてたんだけどなぁ。
まあ、あのあと俺がフォローしといたから、田所さんの怒りマイルドになったんだよ。
感謝してほしいよね、先輩にさ」
(何でもかんでも恩着せがましく言ってくるけど――
そっちこそ、たいしたことしないじゃん)
小杉は、顎を上げてにやりと笑う。
「ま、こういうのも経験っしょ。社会人って、そうやって覚えていくもんだからさ。
俺なんか、最初から完璧だったけど?」
(完璧……? 自分で言うか、それ)
香水のにおい、猫背の背中、誰にでも説教じみた小言。
あかりは無言のまま、ペンを強く握りしめた。
言い返せない。でも、悔しい。怒りが静かに燃えている。
(……ダメなのは、こっちじゃない。あんたのほうだよ)
月曜の朝から理不尽コンボ。
「あーこういう人いる……」って思ってもらえたら嬉しいです。
でもあかりは、それでもちゃんと耐えてる。静かに、でも力強く。




