資格試験と水餃子
小杉でさえ持っている宅地建物取引士の資格を、私はまだ持っていない。
「なんであんな人でも受かったんだろ……」
ついそんなことを考えて、落ち込む。
でも、今は自分のペースでやるしかない。
土日の仕事がない日は、資格を取るために専門学校へ通っている。
少ない給料からなんとか学費を捻出して、遊びやおしゃれに使えるお金は減ったけれど、「将来のため」と言い聞かせている。
毎週びっしり勉強しているわけではないけれど、できるだけ時間をあてている。
少しサボると「こんなんじゃ受からないかも……」と不安になる。
気にしすぎなのは昔から。でも、それが私を動かしている気もする。
平日の夜も、なるべく机に向かう。
仕事でクタクタに帰ってきて、「少しだけでも」とテキストを開くけれど、眠気に勝てずウトウト……。
ページの角にヨダレの跡がついてて、思わず苦笑い。
「小杉になんて負けたくない」
そうつぶやいて、もう一度机に向かう。
今の私の一番のモチベーションかもしれない。
時々、そんな夜に母が「ちょっとお腹すいてない?」と夜食を持ってくる。
小さなおにぎりと味噌汁だったり、ゆで卵とトマトのサラダだったり。
「がんばってるね」と笑ってくれるその一言が、何より沁みる。
その日も、専門学校の授業を終えた私は、いつものようにデパ地下に立ち寄った。
ハーフアンドハーフのシーフードサラダを手に出口へ向かうと――
「……あれ? 春日さん?」
その声を聞いた瞬間、胃の奥がきゅっと縮んだ気がした。
振り返ると、増田里美。
巻いた髪にヒールの音、やたらとキラキラして眩しかった。
「なにしてるの? もしかして、学校帰り? あ〜、宅建の専門学校でしょ? ……通ってるんだ?」
口元には、あの見下すような“優しさの仮面”。
「すごいな〜、今さら? 宅建ってさ、高校生でも取れるって聞いたよ? 私は持ってるけど。
でもまあ、春日さんってまじめだから、コツコツ型だよね。“今さら”でも、がんばってる姿ってちょっと応援したくなるっていうか〜」
ぐさぐさぐさ。
言葉の一つ一つが、じわじわと刺さってくる。
でも、そのとき、私の中で何かがプツンと切れた。
「……うるさいな」
自分でも驚くくらい、ストレートな言葉だった。
「人が今頑張ってるのに、“今さら”とか、わざわざ言わなくていいじゃないですか」
増田の顔が一瞬固まる。
空気が静かになった。
「……ふーん。そっか。ごめんごめん、気にしすぎちゃった? じゃ、がんばってね〜」
ヒールの音を響かせながら、あっさりとその場を去っていった。
言い返したあと、達成感なんてどこにもなかった。
「うわ……なにあれ。子どもじゃん」
「みっともない。情けない」
電車の中、何度も自分の「うるさいな」の声がリピートされた。
(言い返したって、何にもならないのに。
言い返した自分がいちばん嫌だ……)
家に着くと、台所からいい匂いがした。
「おかえり〜、今日は水餃子にしてみたよ」
母の声に、「ただいま」とだけ返した。
サラダを渡すと、「今日もお疲れさま」と笑ってくれた。
その一言に、少しだけ、心がゆるんだ。
「……なんか、さ。帰りに、増田さんに会っちゃってさ」
私は、ぽつぽつと話し始めた。
感情があふれて、泣きたくなったけど、
母は何も言わずに水餃子を器に入れてくれた。
「まずは、これ食べなさい。あったかいうちに」
もっちりした皮の中から広がる、鶏ひき肉とニラの香り。
優しいスープと一緒に、張りつめた心が少しずつほどけていく。
「……うまい……」
ぽつりと漏れた言葉に、母がクスッと笑った。
「言いたくなった時に言ったんだから、それでいいの。
むしろ、よく言ったじゃない。
ずっと我慢してきたでしょ? たまには、言わなきゃ伝わらないこともあるのよ」
「でも……もっとちゃんとした言い方あったと思う」
「大人だって、感情的になることあるわよ。
お母さんだって、営業先で言い返しちゃって、帰り道に自己嫌悪……しょっちゅう」
母は笑いながら言った。
「でもね、あかり。
“言ったあと、どうしたいか”が大事なんだと思う。
今日落ち込んだ分、明日ちゃんと前を向ければ、それでいいの。
あんた、ちゃんと前に進んでるじゃない」
その言葉に、目の奥がじんわりと熱くなった。
食後、テキストを開きながら、今日のことを思い出す。
まだ増田の言葉は胸に残ってるけど、心の重さは少しだけ軽くなっていた。
「……ちょっとだけ、復習しよ」
赤ペンを手に、ページをめくった。
眠気に勝てず、うつ伏せで眠ってしまったあかりに、母がそっとタオルケットをかけてくれる。
「よくがんばってるよ、あんたは」
小さな声が、部屋の明かりと一緒に、そっと寄り添った。
その夜、あかりの寝顔は、少しだけ穏やかだった。
落ち込んだ夜に、何も言わずそばにいてくれる存在がいるって、すごく心強いことですよね。
水餃子のスープのように、あたたかい夜でした。




