プロローグ 単なる鉄くずの山が、そこにはあった
――――冷たい。それが産まれて初めての感覚だった。手足には枷がかけられ、夜になるとナイフやムチで痛めつけられる。そんな日常。
「やめろよ、父さん。オレが何をしたっていうんだっ、ぐっ……」
「許せアルバス、お前のためだッ。紋章さえ現れなければ、どれほど良かったことか……」
右手の甲には紋章が刻まれている。どことなく、ドラゴンの顔に似ている。これが何だっていうんだ。
身体についたアザは数えきれない。ココロなんて、もう残っていない。
パイプ、鉄、レンガ……それらをデタラメに組み立てた家とも言えない“家”の中で、ずっとこのまま変わらず、時間が過ぎると思っていた。
でも突然、“家”は崩れた。
あの日、青い瞳をした黒いドラゴンが、“家”の壁を破ってきた。
大きなドラゴンと目が合う。すぐにわかった。有名なドラゴンだ。
翼竜ケルラ。一年に一度、決まった時、同じ日に目覚めるドラゴン。気性が荒く、若い女を生贄に捧げなければ落ち着かないらしい。そいつが瓦礫の、『“家”だったもの』の上に立っている。
黒い身体に生えた翼をひろげ、咆哮をあげる。
危ないと思った時には遅かった。ヤツは、もう目の前にいて、口を大きく開けていた。
もうダメだ。目を閉じる。ふいに強い衝撃が与えられる。
……
…………
……………………
目を開ける。擦った頬がヒリヒリするが、無事だった。くもり空の下、口元を真っ赤に染めたケルラと、その足元でぐったりと横たわる父。腹はえぐれ、腸がデロンと出ている。
もしかして、オレのことをかばって? あの父が?
高鳴る鼓動。たぎる血液。
「貴様…………」
右手の紋章が輝く。
オレの爪が、歯が、肌が、たちまち変化していく。長い鉤爪、鋭いキバ、鋼のような肌。それらは、まさしくドラゴンのものだった。
……
…………
……………………
一夜明けて、オレは目を覚ました。人間の身体だ。目の前に広がる荒れ果てた街と、口の中に残る鉄の味が、昨日の惨劇が夢ではないと告げている。
「あの力は……」
右手の紋章はもう光っていない。でも、“あの力”がこの街を壊したと考えると、手が震えた。
「……くそっ」
腹いせに瓦礫を殴る。
「――――っ」
いてぇ。
顔がゆがむ。左手で右手をさする。
少し、視界がぼやけた。
「ねぇキミ、大丈夫? 」
声のする方に視線をやる。
女の子が、案じ顔でこちらを見ていた。若い。少し歳上だろうか、見知らぬ顔だった。バックパックを背負っている。
「よそ者か。さっさと向こうに行けっ。しっ、しっ」
「そうはいかないよ」
少女はこちらに寄ってくる。荷物を瓦礫の上に置いて、包帯を取りだした。
「だ、大丈夫だから――――」
「泣くぐらい痛いくせに」
「さっ、さわるなっ」
「ダメだよ。この傷、放置したらすぐ病気になるから……あれ? これって……」
その視線はオレの右手に向いている。
「何かわかるか? 」
「竜の紋章だよ。ドラゴンの血を引いてる証さ。こいつを持ってるやつは、過酷な環境で成長して、やがて人外じみた異能を持つんだよ……ドラゴンみたいにね」
「冗談だろ? 信じてるのか? 」
「まあ、ね」
「ふーん、じゃあ、ドラゴンになってやるよ」
ガオーと吠えてみた。
少女はクスリと笑う。
「そう言っても、やらないでしょ? 」
「なっ……」
「だってキミ、優しい目をしてるもん。最初追い払おうとしたのも、ボクを傷つけないためだったりして? ドラゴンの力がまだ制御できていないとか? 」
「そんなことは……ないっ」
「強がっちゃって」
少女は応急処置を終え、スっと立ち上がった。
「ボク、ティア。となり町から来たエンジニアさ。キミは? 」
「…………アルバス」
「アルバスね、いい名前じゃん。誕生日は? 」
「知らない」
「そ、そうなんだ。家族は? この辺りに住んでるの? 」
「……思い出せない」
正確には、“思い出したくない”。でも、“思い出せない”にしよう。複雑な感情が、胸の中を駆けめぐっているから。
「そっか、キミもワケありなんだね。帰るところも……ないか、この様子じゃ」
辺りを一望する。街の面影すら感じない。単なる鉄くずの山が、そこにはあった。
「じゃあさ、ボクについてきなよ。戸籍もボクの弟ってことにしてさっ。大丈夫、戸籍の偽造は得意なんだよね。そういう仕事も、たまにやってるから」
「い、いや……」
「ボクも家族いないから、欲しかったんだ、キミみたいなの」
「……ペット扱いするならごめんだね」
「ダメなの? 」
ティアは、上目遣いでこちらを見てくる。
「……好きにしろ」
「やった。じゃあ、誕生日はとりあえず今日ってことにして――――――」
ティアは、上機嫌に話している。不思議な気持ちだ。
……
…………
……………………
ティアと生活を始めて三年が経った。ティアは本物の姉のように接してくれる。
だけどオレはあの日から変わらない。ドラゴンの血が囁いてきて、ときおり、我を忘れそうになる。いまだに右手の紋章を見ると、手が震える。
親の顔も忘れつつある。でも、身体に受けた痛み……そして、あの日の感情は消えない。