最終話
親しみを感じて、つい言ってしまう。
「ヨハネスさんは、ノア勇猛王にそっくりです」
「そうかな。俺は剣なんて握ったこともないんだけど。オールなら毎日握ってる」
軽い冗談に、二人で小さく笑う。
ヨハネスは私の胸元を遠慮がちに見た。
「実は今日は朝からここに来ていたんだ。でも、そのネックレスが見えなくて。やっぱり遺言と同じことが起きるなんていう奇跡は、あるはずがないなと落ち込んで、さっき一度家に帰りかけたんだ。でも、今日だけは夜までいるべきだと考え直して、引き返してきたところだったんだよ」
「引き返してくれて、良かったわ。椅子から立ち上がるまで、ネックレスを外套の下に入れていたから……」
「ああ、本当に。先祖を信じて良かったよ」
私達はしばらくそうして無言で見つめあった。やがてヨハネスが口を開いた。
「アリーラの家にも、ここに来いと誰かの遺言があったの?」
「私の十代前の先祖が、このネックレスをくれたノア国王と約束したんです」
「俺達の先祖は、凄い約束をしたんだね。ーー君のそのご先祖様は、なんて言う名前だったの?」
私はここで返事に窮した。
ファナの歴史は現代に伝わっていないからだ。王太子を捨てて、駆け落ちした公爵令嬢。
でも、もう時効だろうか。
私は大きく息を吐くと、ノアの子孫に歴史に埋もれていた真実を伝えようと心を決めた。
「ファナ・レシュタットです。二百年前の当時は、公爵家だったんです」
意外にもヨハネスは驚いたように目を見開いた。続けてごくりと喉を鳴らし、口を開く。
「知ってるよ。この遺言状と同じく、その令嬢を描いた肖像画が我が家には受け継がれてるんだ。ノア勇猛王の妃の、エラ王妃が大好きだった従姉妹だったから、彼の遺品に紛れたんだろうと聞いているけど……」
そこまで言うと、ヨハネスは頭の中を整理するかのように、腕組みして難しい顔をした。
「この紙に描かれたアリーラ・レシュタットが、ファナ・レシュタット公爵令嬢の関係者だろうとは思っていたけれど、まさか直接の子孫だとは思わなかったよ。だって……ファナ公爵令嬢って、たしか二世紀前のイサーク王の、消えた婚約者じゃなかった?」
「さすが、お詳しいですね。イサーク王との婚約の前に、ファナは駆け落ちしたんです」
「駆け落ち!? って、誰と?」
「……ジュストと。ジュスト・アーヴィング」
ヨハネスはなお一層大きく瞠目した後で、目を閉じで首を左右に振った。
「いやいやいや。その名前も知ってるぞ。アーヴィング伯爵家の男性で、俺の先祖の命の恩人でもある」
「それはモンラン湖の事故で、王太后を救命したことですか?」
「そう。よく知ってるね。でも、そのジュストは若くして亡くなったはずだけど」
「ファナ・レシュタットと、手を取り合って駆け落ちしたんです。婚約発表の直前に」
雨の夕方に。
あの日、全ての鎖を断ち切り、ジュストの胸に飛び込んだ瞬間に味わった喜びは、きっとこの先もずっと忘れない。
ヨハネスは側頭部に手を当て、混乱した様子だ。
「すごい事実だね。今初めて知ったよ。ノア勇猛王がこのネックレスを誰かにあげていたことは、長らく内緒にされていたんだ。歴史ある大事なジュエリーだったからね。エラ王妃に気を遣ったんだろう。でも、ノア勇猛王は次男にだけは、ファナ・レシュタットにあげたと打ち明けたんだよ」
そこまで言うと、ヨハネスはグルリと瞳を回してから、ハハッと笑った。
「まぁ、大方の予想通りだな。さては、ノア勇猛王はファナ公爵令嬢に振られたんだな。君のご先祖は、二人の国王を袖にしたわけだ」
「そうかもしれません」
二人で大きな声で笑うと、天井の高い教会の中で、笑い声がよく響いた。
笑いを収めると、ヨハネスは遠慮ぎみに言った。
「なんとなく分かったな。ノア勇猛王の遺品にあったファナ・レシュタット公爵令嬢の肖像画は、間違って紛れ込んだんじゃなく、実際に彼の物だったんだろうな」
「それって……どんな、肖像画なの?」
ノアが手元に持っていたという私の絵が気になり、尋ねてみる。ノアはどんなファナを描かせ、眺めていたのだろう。
ヨハネスは即答せず、微かに苦笑した。
「それがさ、なぜか寝間着姿でワイングラス片手に、ソファに座る令嬢の絵なんだ」
「えっ……」
「ファナ公爵令嬢は、凄く楽しそうに笑っているんだけど。あの絵の所有者がノア勇猛王だったなら、一体どういう一場面を描いたものだったのか、かなり解釈に苦しむな。もしかして、そんな場面が二人には実際にあったのかな」
思い出が蘇る。
ノアと私には、たしかにそんな夜があった。立場を忘れ、二人で語らったひと時が。
間違いなく、ノアはあのコンドルーの夜を描かせたのだ。胸にジンと迫るものがあり、私が口を開けずにいると、ヨハネスが呟く。
「よく分からないけど、きっとノア勇猛王には、忘れたくない大事な場面だったんだろう」
「そうね。きっと、そうだった」
「――それにしても、二百年後であっても……なんていうか、ファナ・レシュタット公爵令嬢を諦めたくない、猛烈な執念を感じるな」
そう言うと、ヨハネスは気まずそうに首の後ろを掻いた。
言われた私は、今となっては先祖の話だけれど、恥ずかしくなって顔が熱くなってしまう。
二人だけの戴冠式で約束をした時、もしかしたらノアは何か物を教会に置いて、アリーラに残してくれるつもりだったかもしれない。でも、ファナとその後の人生の中で完全にすれ違ってしまって、彼は物質的な置き土産ではなくて、子孫に想いを託すことにしたのだろう。
アリーラがあの約束を覚えていて、自身の子孫も彼の遺言を伝えてくれて、二人が再び出会うという、奇跡のような未来に賭けたのだ。
「ファナ・レシュタットは、そんな風にノア勇猛王に想ってもらえて、本当に幸せ者だわ」
「そう言ってもらえると、安心するよ。執念深さに、引かれなくて良かった」
ヨハネスはハハハと笑ったが、すぐに笑いを収めると、感慨深げに口を開いた。
「これで我が家に伝わっていた遺言の謎が、解けたよ。なんか、不思議だな。二百年ぶりに……やっと俺達は会えたっていうことだね」
目が潤んできてしまう。
ノアの顔で言われるこのセリフは、反則だ。
あの時代でただひとり、私をアリーラと呼び、私と秘密を共有したノアが、今目の前に現れてくれた気がしてしまう。
手の甲で涙を拭うと、ヨハネスは慌てた。
「えっ、ごめん。俺変なこと言ったよね。やっぱり引いた? 泣かないで、アリーラ」
ヨハネスはぎこちなく手を伸ばし、私の手を握った。その温もりに、余計に泣けてくる。
ノアが戦地に赴く前に、私と交わした約束は、二百年後のお土産の話だけではなかった。
あの果たせなかった約束を、ヨハネスが守らせようとしている気がしてしまう。ヨハネスはその約束を、知るはずなんてないのに。
嗚咽が止まらなくなった私を、宥めるようにヨハネスは背中を上下にさすってくれた。
随分長いことそうしてさすってくれた。
ヨハネスは私から手を離すと、少し怪訝そうに首を傾げて言った。
「いや、やっぱりまだ一つ、分からないぞ。ノア勇猛王は、どうして君の名前を知っていたんだ? ファナの十代後の子孫の名前がアリーラだって。それになぜ二百年後なんだろうな」
「それは……、説明が難しいわ。なんて言ったら良いのかしら。凄く混み入った事情があるの」
するとヨハネスは自分の後ろを振り返り、正面扉についた小窓を見やった。外はすっかり暗かった。外に出て見上げればきっと、ステンドグラスと同じ夜空が広がっているはずだ。
ヨハネスは少し遠慮ぎみな笑顔を見せ、問いかけてきた。
「どうだろう。立ち話もなんだし、この後一緒に夕食でもどう? 色々と、聞きたいこともあるし」
私が即答出来ずにいると、ヨハネスは焦った様子で言い足した。
「俺、もしかして急に誘ってくる気持ち悪い奴になってる? これは変な意味じゃなくて、別に下心があるわけでも……、いや、き、君のことは正直、――凄く可愛いなと思ってるけど」
「えっ?」
「い、いや、ただ、俺の家族もみんな、君とネックレスを見たら驚くし喜ぶと思うんだ」
「家族……」
私が呟くとヨハネスはさらに焦った。
「いやいや、まずは食事だね。その後で、――時間があって、アリーラが良ければ……、俺の家族にも君を紹介したい。別に変な意味で親に紹介したいとか言ってるんじゃないよ? ただ、アリーラ・レシュタットは、我が家ではずっと誰より気になる女性だったんだ。二百年間もね。出来れば色々と、話を聞きたいな」
「ご家族中が私のことをご存じだなんて、なんだかとても恥ずかしいです」
「子どもの頃から、俺はこの瞬間をずっと想像していたんだよ。夢が叶った気分だよ。――ってこんなことを言ったら、君はやっぱり引いてしまうかもしれないけど」
そんなことはない。
私もこの日に、言い表せないほどの思い入れがあった。
「ファナ・レシュタット公爵令嬢と君の話を、ぜひ聞きたいな」
「私が話すことは、きっと凄く突飛な内容で、信じられないかもしれません」
「そんなことはない。俺はこの二百年前の紙一枚を信じて、君がここにくる可能性を思って、今日やってきたくらいなんだ。突飛だろうと、聞きたい」
こんな話を、信じる人がいるだろうか。
祖母の最期の願いで、神様が私を先祖の中に戻してくれた、なんて話を。
どうすべきか迷って返事に困っていると、ヨハネスは言った。
「アリーラ、話して。俺は君の話なら、なんでも信じるから」
その瞬間、オリーブ色の瞳を通して、私はたしかにノア王子の姿を見た。全く同じ台詞を、私は二百年前にノアに言われていたから。
時は過ぎ去り、彼自身は既に存在しない。けれどたしかに、彼らの思いは私たちに受け継がれている。
「――何から話したらいいかしら。ものすごく長くなりそう」
「いいねえ。聞き応えがありそうだ。俺も、君に聞きたいことがたくさんあるから」
「私も、本当は話したいことがたくさんあるの」
私達は笑みを交わすと、扉を開けて教会の外に出た。
外はすっかり暗く、家々の明かりが灯っている。長々と座り込んで過去に浸っていたせいで、すっかり時間が経っていた。
私に微笑みかけてくれるヨハネスのおかげで、立ち止まっていた時間がもったいなく思えてきた。
ヨハネスは宙を見て少し考えると、私にオリーブの瞳を向け、言った。
「何を食べたい? ――この近くに、スヴェン料理が美味いレストランがあるんだけど」
「スヴェン料理! いいわね。ノア勇猛王を語るのに、ぴったりかもしれない」
「じゃ、決まりだな。十五分くらい歩くけど大丈夫?」
「もちろん。十五分なんて話していたらあっという間だと思うもの」
ヨハネスは朗らかに笑った。その後で、ぎこちなく私に手を伸ばした。
なんだろうと見つめ返すと、彼は遠慮がちに言った。
「ええと、……手を繋いでもいい? やっと君に会えたから」
「えっ……」
「子どもの頃から、ノア勇猛王の遺言書をいつも眺めていたよ。どんな人なのか、いつも考えていたし、ずっと会いたかったんだ」
「ヨハネス……」
「だから親父をおしのけて、俺が来たんだ」
私は右手を伸ばし、ヨハネスの手を握り返した。
その温もりに、心がふわふわと舞う。
「あ、誤解しないでね。俺、普段はこんな風に女の子と軽々しく手を繋いだりしないから!」
「うん、分かってるよ。私もだよ」
「君が、俺にとって本当に特別だから……」
ヨハネスは恥ずかしそうに目を背け、小声で言った。
「まずいな。俺、今すごくドキドキしてる……」
「わ、私も」
二人で照れくさくなって俯きながらも、私たちは手を離さなかった。むしろヨハネスは一層手に力を込めた。
教会の扉が閉まると、もう私はうしろを振り返らなかった。
二人で歩き出し、ヨハネスと今から食べに行く料理のことを話しながら、どのくらい美味しいだろうか、どんな味だろうかと考える。
これから過ごす時間に、わくわくと心が躍る。
私はファナとジュストを置いてきたのではないし、置いていかれたのではない。二人は、私に希望と未来を託したのだ。
私はアリーラとして、明日を紡いでいこう。
―――――
ノア勇猛王の遺言は、二つあった。
『アンデマンのネックレスをした女性が、聖大教会に必ず現れる。彼女はアリーラ・レシュタットという名を持つはずだ。私が描き残すアンデマンのネックレスをもとに、私の子孫はアリーラを必ず、迎えに行くように』
この遺言はノアの次男の家系であるハリファックス公爵家に脈々と受け継がれた。そしてそのお陰で、ヨハネスは私に会いに来た。
ノア勇猛王の遺言は、二つあった。
二つ目の遺言は、ヨハネスと知り合ったこの日から、随分経ってから私は彼から教えてもらうことができた。
ヨハネスがその遺言をすぐには私に明かせなかった理由は、後で十分に理解できた。それは一つ目の遺言の続きのようなものだった。
『アリーラに出会えたなら、今度こそ彼女を抱きしめよ。そして抱きしめたなら、彼女を二度と離すな』
私――アリーラとヨハネスは、この二つの約束を今度こそ破ることなく、守り通した。
〜完〜
これにて完結となります。
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最後までお読みいただき、ありがとうございました。




