一人になった私と、歴史の中の彼ら
呼吸がしづらかった。
顔面が、どこかに押しつけられているからだ。
私はどこかに寄りかかって、顔を突っ伏していた。背中に力を入れてそろそろと顔を上げると、目の前にソファがあった。
視線を上げると、顔のすぐ近くにおばあちゃんがいた。真っ白な顔で、ソファに横たわっている。
一気に現実に引き戻される。
「おばあちゃん、しっかりして! おばあちゃん!」
仰向けの祖母を揺すると、彼女の体の上にあった紺色の冊子が滑り落ちる。
祖母が弱々しく薄目を開けると、緑の瞳から涙が出てこぼれた。その血の気のない唇から、必死に言葉を紡ぐ。
「取り消さなくちゃね……。ファナは、馬鹿なんかじゃ、なかった」
「うん。うん、そうだね。おばあちゃんも、見てきたんだね」
ファナには、他にも子ども達がいたはずだ。
だとすれば、今もその子孫がどこかに暮らしているのかもしれない。
ランゲに行けば、探し出せるだろうか?
いつか、会いにいってみたい。
祖母は胸の前に置いていた手を、震わせながら持ち上げた。ジャラ、という音がしてシワだらけの拳から、金色の鎖が滑り出る。
「それ、何? 何持ってるの?」
不思議に思って祖母の拳を両手を広げて迎えると、手のひらに載せられたのは、青い花形のネックレスだった。
「これ……! ノアからもらったネックレスだわ!」
私がそう叫んだ直後、祖母の手は力を失い、ソファの上にポトリと落ちた。
ハッと息を呑んで祖母を見つめると、もう目は開いていない。
「おばあちゃん。おばあちゃん……」
片手で祖母の頬を撫で、手を握る。
祖母は意外なほど安らかな顔をしていて、いっそ微笑んでいるようにも見えた。もう息をしていないのは、はっきり分かった。祖母の胸はもう、上下していない。
――祖母が、死んだ。
間に合わなかった。いや、私は何に間に合って、何に間に合わなかったんだろう。
喪失感は大きかった。けれど、同時に私は祖母と一緒に二百年前を見てくるという、不思議な長い時を共有することができて、一種の充足感も抱いた。
祖母にとっても、ファナの生活を見てきたことは、長年の謎が解けた貴重な体験だったはずだと確信できる。
私は今度こそ大切な人と離れたくなくて、ギュッと祖母にしがみついた。
そうして、祖母の体が温もりを失っていく長い時間をかけて、自分に起きた波乱に満ちた出来事を、消化していった。
やがてノロノロと視線をさまよわせると、玄関に私のカバンとりんごが転がっているのが見えた。
(あのりんごは……、たしか、おばあちゃんに食べさせようと思って、帰り道に買ったリンゴだった……)
あの日、大学の入学金を振り込む決意ができず、祖母を医者に連れて行こうと帰宅したのが、ものすごく昔に思える。
あの後、私は二年ほどの月日を、ファナとして生きていた。
だがリンゴは腐りもせず、今買ってきたばかりのように、床に転がっている。
まだ温かな祖母に抱きつく。
「おばあちゃん。最後に、すごいプレゼントをありがとう」
祖母の死を変えることはできなかった。
でも祖母も私も、今はファナを責める気は一切ない。
床に落ちた日記帳は、紺色だった。私が二百年前に、自分で買った日記帳だ。
時間が巻き戻る前、我が家に受け継がれてきた、祖母の持つ日記は、赤色のものだったのに。
私は部分的に未来を変えたのだ。それは、私がたしかにあの時代にいたのだ、という証拠にも思えた。
祖母の体に自分の体を寄せ、じっとしていると、壁掛け時計が時を刻むカチカチという音が聞こえる。
アリーラ・レシュタットの時間が、動き出していた。
「あのあと、みんなはどうなったの?」
ノロノロと部屋を這うと、私は居間の隅に置かれた勉強机の引き出しから、あるものを探す。
歴史の教科書だ。
震える手で、紙を破る勢いで捲っていき、二百年前の歴史を確かめる。
すぐに目についたのは、「イサーク国王」の字だ。彼についてはたいしたことが書かれていないが、代わりに「パトリシア王妃」について、教科書は特集ページを設けて、かなり詳しく記していた。
「すごいわ。パトリシア。あなたを、本当に誇りに思う」
パトリシア王妃は、女性の地位向上に生涯を尽くした王妃として、名を残していた。
女子の為の教育機関を設立し、職業訓練施設を作り、人身売買を禁じる。
中絶を合法とし、法律上のあらゆる権利について、男女の差を無くすよう、働きかけた。
王妃は子に恵まれなかったが、彼女は「女性の人権の母」と呼ばれた。
そして私が驚いたのは、かつては太字で書かれていた「モンラン湖の悲劇」が教科書の本文から消えたことだった。
かわりに、欄外に小さな文字で、この頃避暑地で船の事故があり、犠牲者が多数出た方が記されているだけだった。
そして「コンドルーの悲劇」についての記載は、跡形もなくなっていた。
だが、安心したのも束の間。ディーン対スヴェンの戦争は、前回の倍の年月をかけてやっと終戦へと至っていた。
その中で、従軍していたノア王子が足に大怪我をしていた。
「なんてこと。ノア……!」
こんな歴史は、知らない。本来は、ノアはスヴェンとの戦いに出かけたりしなかったのだから。
ノア王子は大怪我の後、戦線離脱したが一生杖なしには歩行が出来なかったという。ノアはコンドルーの悲劇を逃れたはずだったのに。歴史的必然から、彼を逃してやることができなかった。
だがノアは自ら兵を率いた気概を評価され、後に「ノア勇猛王」と異名を付けられていた。
一度目のノアは持たなかった異名だ。
そしてノア勇猛王は後に王位を兄から継ぎ、子には恵まれた。
教科書の端に書かれた王家の家系図を、急いで確かめる。
「ああ、そうだったの」と声が漏れる。
ノアの妃の名は、エラだった。エラ・コンドルー。つまり、コンドルー伯爵家の令嬢だ。
あの、私が見た六歳のエラが脳裏に蘇る。
ノアの手に鈴が結べなくて、怒って屋敷に逃げ込んだエラ。あの二人が、あの後結婚したのだ。
教科書を読むと、余計にみんなとの距離を感じた。
歴史に名を残した彼らと、私はたしかに一緒に過ごしたのに、今はこうして記録を読むことでしか、存在を確認できない。
私は一人、置いて行かれた気がした。




